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2009年8月15日 / misotukuri

日本人の死生観-お盆にはお墓参りでしょう

 今朝は西の空以外、雲一つない快晴だった。
 仕事の都合で行きそびれていたお墓参りは明日にして、もう一度剣山へ行こうと思った。
 しかし、大あわてで準備して車で家を出たら、やっぱり西の空の雲が心なしか大きくなったような感じだった。
 これではアカンだろう。
 北の空のピーカン晴れは当てにならんと言うからね。
 あきらめてご先祖様のお墓参りに行った。
 前にも書いたことだが、日本人の生死観、特に土俗的な信仰の中にエッセンスとして窺えるものはなかなか鋭いものがある。
 昔は土葬などをしていたから、生から完全な死へと移行するのも今よりは時間がかかったことと思う。
 ただし、今でも焼き場で焼かれて生き返るなんてことはあり得ないので、たとえ存在の深いところではまだ死んでいなかったとしても、時間的には大差ないだろう。
 だが、映画「殯(もがり)の森」に出てくる殯も半年くらいすれば別だが、今では死への最終過程は焼かれることによって確実にスピードアップしている。
 人間の生から死への過程というのは、ようするに肉体が精神活動を維持できなくなって自我が崩壊して行く過程のことなのだ。
 まず最初に、あなたをあなたたらしめている「個性」が崩落していく。
 しかし、あなたはまだどことなく他人とは違うあなたの「個性」のようなものを残し維持している。
 それは祖先から連綿と受け継いできた「祖霊」ともいうべきものだ。
 この直前の段階で、あなたはとっくの昔に死んだ祖父母や父母と再会してなつかしさで胸がいっぱいになる。
 これがいわゆる「お迎え」だが、もちろん、再会しているのではない。
 あなた自身が自分の「個性」という衣服を脱ぎ捨て、祖父母や父母と同じ「祖霊」になろうとしているのだ。
 ここで引き返すことができなければ、あなたはあなたを、あなたたらしめていたものを、完全に失うことになる。
 ノーリターン、不可逆の道だ。あるいは、帰らざる河。「三途の川」ともいう。
 そして、「祖霊」となったもはやあなたではないあなたは、焼かれることがなければ、ゆっくりと細胞レベルで崩壊して行きながら、消滅していく。
 現代では、ここの過程がスピードアップされている。
 従って、焼き場で焼いてしまう現代では「四十九日」とか「むかわり(一周忌)」とか、意味ないのだ。
 「お墓参り」なんてのもあまり意味はない。
 ただし、生死観を考えさせられる機会という点では大いに意味がある。
 先祖参りしなかったから不運に見舞われるなんてことも迷信だ。
 誰かがそれで儲けているだけ。
 それなのに、私は「お墓参り」に行った。
 かみさんも私も同じ村の出なので、こういうときは便利だ。
 「子供たちのことをお護りくださいって、おねがいするのよ」
 「ハイ、ハイ」
 「やっぱり、こんな日に剣山なんかに遊びに行ったら罰が当たるわね」
 「そうだね」
 ということで、剣山はもうやめて、近くの植物園へ行った。
 サルスベリ、高砂(台湾)ユリなどが咲いていた。
 写真に撮るとどれもこれも生々しく、お盆にふさわしくないので、一枚だけ、高砂(台湾)ユリを逆光で撮ったものをアップしておく。
 お盆を過ぎたら、少しずつ継ぎ足しアップをするつもりだ。
 <2012.8.22編集>
人間の生から死への過程についての私の考えは、基本的には3年前と変わりないので、表現だけの訂正にとどめた。
ただし、去年あたりから、「チベット死者の書」の影響を受けつつある。

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