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2011年11月29日 / misotukuri

映画「ソウ」のあら、ソウだったの度

一昨日、映画「ソウ」(04年、米、ジェームズ・ワン監督、ケイリー・エルウィス、リー・ワネル他)を見た。

評判の映画なのは知っていたが、この手の映画、あまり好きでないので、今まで避けていた。

しかし、やっぱり映画ファンとして、食わず嫌いもどうかなと思い直し、見てみたのだが、なかなか良くできていたね。

ただ、最初は単なる猟奇ホラー・サバイバル・ゲーム映画かと思っていたら、謎解き映画だった。

あら、ソウだったの!って感じ。

それなら、こっちにも考えがあったのにと、サーッと映画を振り返ってみると、誇張気味の演出でわざとらしい伏線が何カ所か思い出され、ホゾを噛んだ。

考えというのは、私の推理小説の犯人フーダニット(誰が殺ったか)三原則からすれば、直ぐに予測がつくことだったのにということだ。

<推理小説の犯人フーダニット三原則>

1 犯人は必ず登場人物の中にいる。

2 犯人は最も疑わしくない人物であることが多い。

3 犯人は被害者よりも犯行自体に動機を持っている。

まず、1の「犯人は必ず登場人物の中にいる。」についてだが、現実の犯罪と違って、犯人がとうとう最後まで登場しない推理小説などというのは、ついぞ読んだことがない。

フィクションでは、登場人物をしらみつぶしに検討すれば、大団円を迎える頃までには見当がつくが、現実の犯罪捜査では、疑わしい人物を登場させるまでが大変なのだ。

中には、犯行現場がどこだったのかさえ、分からずじまいの事件も沢山あるわけだ。

次に、2の「犯人は最も疑わしくない人物であることが多い。」だが、これは意外性だね。

だけど、ホントにアガサ・クリスティの「アクロイド殺し」とか、エラリー・クイーンの「Yの悲劇」にショックを受けた頃が懐かしいよ、全く。

何でも、最初は新鮮で、私なんか、平凡社の国民百科大事典だったか、「世界の探偵小説ベスト100」とかいうランキング表を一つずつ消していくのがホントに大いなる悦楽だった。

ミステリ・ファンなら誰しも似たような思い出があろう。

そういう駆け出しの頃の意外な犯人ショックをあきらめたところに、今日の犯罪小説がある。

「ミレニアム」の犯人など、怪しいと思ってた奴がやっぱり犯人だった!というのだからね。

なんともはや、だが、ある意味、今日の犯罪小説の典型だとも言える。

まあ、別のところに面白さを求めるようになったんだな。

3の「犯人は被害者よりも犯行自体に動機を持っている。」も、結局は動機の真実性(犯行に見合う動機)が問題になるからだ。

推理小説で「動機が弱いね」というのは、最低の評価だ。

そのため、作家は何よりそれに力を入れる。

フィクションでも現実の犯罪でも、犯罪者というのは、被害者個人にではなく、被害者が持っている何か(犯行誘因事由)に反応するのだと思う。

たとえば、犯人に意地悪をした被害者が憎くて殺したのではなく、被害者のつけていた香水の匂いに我を忘れて殺してしまったとか。

まるで、「イレブンス・アワー」だな。

だから、たとえ、通り魔事件でも、被害者は偶然被害者になった訳ではない。

多分、何回やっても、大勢の通行人の中からよりにもよって、同じ人を被害者として選んでしまう何かがその人にある。

その犯行誘因事由を解明することが、犯人のプロファイルを指し示すことになる。

以上のことが全て該当して、次に、もしその人が犯人なら、具体的にどうやって殺したか(ハウダニット)を考える。

それがいくら考えても実行不可能なら、この事件は現実のものではない。

誰かの空想(くうソウ)の中の事件だと言うことになる。

その時、登場人物の中にいる犯人は、空想の事件の中の空想の犯人(つまり、私、本当の主人公)ということになるが、そのように現実感覚を失った人間だという設定もできる。

たとえば、映画「インセプション」の一つの解釈のように。

「ソウ2」以下シリーズ化されているが、続けて見てみる価値があるかどうか・・・

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