Skip to content
2011年12月25日 / misotukuri

「二流小説家」年内読了に成功した

「二流小説家」(デイヴィッド・ゴードン著)読了した。

死刑執行を待っているかってニューヨークを震撼させた連続殺人鬼から告白本の依頼を受けた負け犬の二流作家が陥ったとんでもない罠。

それはまるでその連続殺人鬼を模倣するかのような同じ手口の連続殺人ショーだった。

では、あの連続殺人鬼はえん罪だったのか?

死体の第一発見者にして第一容疑者となった主人公は、自分の書いた小説の探偵よろしく独自に捜査を始めたが・・・

とまあ、ハヤカワ・ポケミスで450頁の大作だが、100頁過ぎても殺人事件が起きず、あと100頁読んでも何も事件が起きなければ、投げ出す覚悟で読んでいたら、ちょうど200頁目で殺人事件が起きた。

さすがに殺人事件が起きてからは、展開が早くなり、ジェットー・コースターに乗せられたように結末へと進んでいく。

ようするに起・承・転・結をなぞったありきたりの構成なのだが、表面的には劇中劇ならぬ小説中小説が2本あり、文学論あり、哲学論あり、出版界の裏事情ありと単なるミステリにとどまらない面白さがある。

・・・と思うのは、一部の人間だけだろう。

それは、つまりは、同業者ということだが、外国のことなので、直接の利害関係がなく、面白く感じられるのだ。

同業者でもない私には、その手のことは、陳腐に思えた。

フーダニットも、以前に私が述べたミステリの原則通りで、すれっからしのミステリ・ファンには直ぐに見当がつく。

それは、この著者も述べているとおり、現実の事件と違って、作者が作り上げた小説の中の事件というのは、単純だからだ。

これもまた、ようするに「事実は小説よりも奇なり」という陳腐な文句で表現できる。

従って、私はこれをミステリとしては評価しない。

それより、「二流小説家」というレッテルでくくられる、ポルノ、SF、ヴァンパイア、ホラー、ミステリ等々のジャンル小説の書き手の実態を描いたミステリ風小説として考えたい。

たとえば、このようなことが書かれている。

彼らが生活のために書き散らしたこれらのジャンル小説でも、それに慰めを見いだしているファンが必ずいるということ。

そして、その人達が外見からは全く想像できないような精神生活を持っていること。

二流小説家である彼らも、そのことに気づかせられ、なにがしかの喜びを感じてしまうこと。

これらは確かに事実だろう。

だが、そういう存在理由の確認作業はいいとして、小説中小説のミステリ的意味合いは、何なのだ?

ミス・ディレクションでもないし、むしろ・・・あまりにもひどすぎる。

とはいえ、死刑囚の異常性格ぶりとか、主人公のおませなビジネス・パートナーぶりとか、物語が普通にハッピーエンドとならないハッピーエンドといい、なかなか楽しませてくれた。

大晦日までとうとう一週間を切ったが、あと読み上げられそうな本もないので、これが2011年最後の一冊となる可能性大だ。

それにしても、年内に読み上げれて良かった。

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。