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2012年1月30日 / misotukuri

映画「裸のランチ」-幻覚の涙は真実か?

ランチを挟んで、映画「裸のランチ」(92年、英・加、デヴィッド・クローネンバーグ監督、ピーター・ウェラー、ジュディ・デイヴィス他)を見た。

原作は、ウィリアム・S・バロウズ(1914~1997)の「裸のランチ(The Naked Lunch)」(1959年発表)だが、内容は全く違っているらしい。

原作がドラッグでブッ飛んでるとすれば、この映画はバロウズが自身がブッ飛んで行く様を描いているとでも言おうか、それくらいの違いがありそうだ。

こういうドラッグ映画を見て、小難しい言葉を使って迎合的に言うのも、単にわからんと言うのも、あるいはグロくてパスと言うのも、さほどレベル的には変わらない。

いずれにしても、少し踏み込んだことを言おうとすれば、ドラッグ体験の有無を言わなければならない羽目になるので、結局当たり障りの無いことしか言えない。

死刑制度に始まって殺人については体験がなくても真剣な議論が出来るのに、ドラッグについてはそれができないのは何故かと言えば、それは頭がおかしいことに直結しているからだ。

幻覚、妄想とそれがもたらす異常な言動は、それが未開地のシャーマンのものなら、深遠なる真理を告げるものだとか言って崇めても差し支えないが、現代人のものなら、単にラリってるだけで、アホかということになる。

ドラッグ文化というのは、ヒッピー華やかなりし頃が最も盛んで、1975年にベトナム戦争が終わっても、まだしばらくは続いていた。

ドラッグ漬けになっていたP・K・ディックが53歳で死んだのは1982年3月2日のことで、訃報を聞いたとき、ようやく一時代が終わった感じがしたものだ。

バロウズ自身は、1997年(83歳)まで生き続け、神格化されてしまった。

映画には、ウィリアム・テルごっこをして誤って妻を射殺してしまった実話のエピソードが出てくるが、とすれば、二人の友人というのは、アレン・ギンズバーグとジャック・ケルアックだろうか?

主人公の名前も、バロウズと同じく、ウィリアム(ビル)だし、多分、バロウズ自身なのだろう。

彼(ウィリアム)は、ラリった状態でウィリアム・テルごっこをして誤って射殺してしまった妻のことを思うたびに涙を流し、また、幻覚の世界(インターゾーン)にいる彼を迎えに来た現実世界の二人の友人と別れた後、「二度と会えない気がする」と言って涙を流す。

この映画の最初に「真実などは存在しない」という言葉の引用があるが、それ自体、矛盾した言葉の表現だが、単に、「真実などは存在しない」という言葉自体は「真実」だったとしよう。

もし、そうならば、幻覚の世界で流した彼の涙もまた「幻覚」であって、「真実」ではないのだろうか?

たとえ、幻覚の世界にいようと、涙の元となった失われた妻への愛、失われ行く友人への友情は、「真実」のように思うのだが。

逆に、「真実などは存在しない」という言葉自体が「虚偽」だった場合は、「真実」は存在するのだから、問題はない。

もちろん、これはクローネン・バーグの映画であり、あくまで、クローネンバーグの幻覚の世界でのウィリアム・S・バロウズ物語「裸のランチ」というお話なのだから、重層的な虚構世界の中での「真実」とは何かという定義如何にかかっていることではあるのだが・・・

長々と書いて、結局、オレも「わからん」か。

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