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2012年2月20日 / misotukuri

芥川賞「道化師の蝶」を読む-難文読解苦行編

芥川賞「道化師の蝶」(円城 塔著)を読んでいる。

”読めない”本という話だったが、聞きしにまさる難読本だね。

最初、パラパラっと読んだが、さっぱり頭に入ってこないので、もう一度、読み始めたが、やっぱり、よく分からない。

ちょっと普通の文章ではないようなので、私の頭が拒否反応を起こしているのかもしれない。

しかし、文法的におかしいのではないかと思えるところもある。

たとえば、最初から3つ目の文章だが、引用すると、

「なにごとにも適した時と場所があるはずであり、どこでも通用するものなどは結局中途半端な紛い物であるにすぎない。」

だが、どうもスッと入ってこない。

「なにごとにも」とは、「不特定な事物一般について」のことと思うが、一方、「どこでも」とは、その内、「不特定な場所一般」についてのことだと思う。

とすれば、上記文章は、出来るだけ原文を損ねないように書き直すと、

「なにごとにも適した時と場所というのがあるはずであり、どこでも通用するものなどは結局中途半端な紛い物でしかない。」

というふうに変えたら、まだしも、わかりやすいのではないか?

何?あまり、変わり映えしない?

あんまり変えると意味が変わってしまうからね。

また、「なにごと」が主語なのか、「時と場所」が主語なのかが原文だとよく分からないので、

A 「『なにごと』にもそれぞれ適した時と場所というのがあるはずであり、どこでも通用するものなどは結局中途半端な紛い物でしかない。」

とするか、

B 「なにごとにも適した、『時と場所』があるはずであり、どこでも通用するものなどは結局中途半端な紛い物でしかない。」

としたらどうだろうか?

A は、「プロポーズ」には「プロポーズ」に、「借金の取り立て」には「借金の取り立て」にふさわしい時と場所があるのであり、どの場所でも通用する「Jinchan 話法」などというものは、結局無難ではあるがあまり人の心に訴えかけてくるものがなくてつまらないものだ、という意味だ。

Bは、東京で最後に雪を見るのにも、立ち食いそばを食べるにも、その他何をするにしても「夜の7時の上野駅」でなかったらというのはあるのであり、上野駅だろうとオルリー空港だろうとえびすの湯だろうとどんな場所でもはまってる「エリート・ビジネスマン」なんていうのは、一言で言うと、きしょい、という意味だ。

何?AとBの区別がつかない?

一応、Aは、一つ一つにそれぞれふさわしい時と場所がある、Bは、何にでもぴったりあう時と場所がある、個別に効くのととオールマイティに効く差なのだが・・・

もっとも、いずれの文も、文章の前段と後段のつながりというか、関係がよく分からない。

もう一度、原文を引用してみよう。

原文:「なにごとにも適した時と場所があるはずであり、どこでも通用するものなどは結局中途半端な紛い物であるにすぎない。」

後段の「どこでも通用するもの」とは、「いつでもどこでも通用するもの」とは書いていない以上、場所だけに掛かるものなんだろうねえ。

ちょっと、A案で言い換えてみよう。

「どんな言葉でも、例えば、現代日本の俗語である『きしょい』を使うにも、それに適した時と場所があるはずであり、どこでも、例えば、皇居でも通用するNHK言葉などは結局中途半端な紛い物でしかない。」

ま、通じないでもないが、前段と後段は、主語が別というか、全然別のことを言っているのではないか?

関係ないだろって感じ。

それなのに、前段と後段に範疇(カテゴリ)が重なり合う言葉が含まれているから、つながりがあるように感じてしまう。

逆に、主語を同じにしたら、この文章は前段を後段で否定しているから、論理的に成り立たない。

正確に言うと、前段は全てのことについて「時と場所」が限定されているとを言っておきながら、後段では「場所」については限定されていないものもあると矛盾したことを言っている。

要するに、互換性のあるサード・パーティの製品は、専用の純正品には敵わないというようなことを言いたいのだろう。

「文書作成なら専用ワープロがいい。PCのワープロ・ソフトは中途半端でダメだ。」みたいなことを気取って書けば、原文のようになる。

だが、これは意図的なのか、それとも、ただ単に、悪文なのか。

判断を保留して、とりあえず、次の行に進もう。

<2012.2.23追伸>

とうとう「道化師の蝶」(円城 塔著)読了した。

辛抱強く最後まで読み進み、何とか理解しようとしたが、とうとう理解できなかった。

そもそも理解できないものについて語るのは無理なことなので、理解できなかったことを書いてみよう。

この小説、まず、書かれている文章の意味が分からないところが多々ある。

いちいち、列挙していると、この前のようになってしまうのでやめておくが、その原因は、日本語の文法から外れている作者の造語に近い言葉遣いと、不適当な用語にあるように思う。

簡単に言えば、悪文であるということだ。

視点がくるくる変わるのがいけないと言うのではなく、文章になっていないように思われる。

次に、いくら読んでも、何の話をしているのか、また、何を問題にしているのか、よく分からないところがある。

読んでいる文字を指で数文字見えなくしてもしなくても、分からないのに変わりなかった。

昔、架空の映画の批評が出てくる小説「フリッカー、あるいは映画の魔」(セオドア・ローザック著)という傑作小説を読んだことがあるが、グノーシス的映画についての評論がものすごい迫力で描かれているのに感心したことがある。

これなど、よく分かる以上に、まるで架空のことなのに、あたかも本当のことのように思えたものだ。

まあ、ファクションというか、架空史というか、そういうジャンルがあるということは、後になって知ったが、それを映画の世界に持ち込んだだけだと言えば、そうなのだが・・・

例えば、マンガ「巨人の星」の手法で、映画の世界を描いたと言えば、分かりやすいだろう。

だが、この「道化師の蝶」のように、架空のことをいかにも架空のことのように書いてどうなるのか?

この小説は、ようするに、時空を越え、さまざまな人間の精神を次から次へと渡っていく羽に道化師の模様のある雌の蝶の話なのか?

それとも、そういう体裁を採りながら、何かを描いているつもりなのか?

これこそ、えっ、これで芥川賞?だよ。

では。

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