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2012年4月22日 / misotukuri

T叔母さんのお通夜

さっきT叔母さんのお通夜から帰ってきたところ。

しかし、知らなかったね。

叔母さんの家が法華宗(日蓮法華宗)だったとは!

徳島では真言宗がほとんどなので、てっきり、真言宗だと思っていた。

日蓮宗の葬式は初めてだ。

お題目を唱えるということがどういうことなのか、初めて知った。

私個人はいろいろな宗教に関心はあるが(今はチベット仏教かな?)特に仏教を信じているわけでもない。

日本の土俗的な死生観を仏教と合わせて理論的に理解しようとしているだけだ。

読経の間、その辺りに漂っていると思われるT叔母さんの霊魂がお香の煙に浮かび上がって見えないかと目をこらして見ていたが、よく分からなかった。

安らかに目をつむったお顔は、昨日見た生前の時のと比べると、半分くらいに小さくなっていた。

霊魂が抜けた後の抜け殻とは、皆このようなものかと思う。

死ぬ少し前のT叔母は認知症がかなり進行していたと言うが、本質的に善人だったのだろう。

体調が良い時には朗らかに楽しそうによく笑っていたそうだ。

もしも、あの世があったとして、まあ、この人が地獄へ行くなんてことは、考えられないが、閻魔大王の前で、ちゃんと、私は日蓮の弟子であるぞと言い、お題目が唱えられるかどうか心配だ。

私は、あの世なんてものはないと思っているが、もし、あったとしても、迷ったり、とまどったりはしないよう、ゾクチェンをよく勉強しておくつもりだ。

だが、死ぬだいぶ前から叔母さんのように認知症になってしまったら、どうなんだろう?

そんなお勉強しても、ダメなんじゃないかな?

やはり、その時のために、単純な形で、心の深いところから、覚えて込んでおかなければならないのでは?

南無大師遍照金剛とか南無妙法蓮華経とか南無阿弥陀仏とか、いろいろな宗派が刷り込もうとするのはそのためかもしれない。

だが、それは私に言わせれば、見当外れもいいとこではないかと思う。

もっと簡単で、たとえ呆けていても、間違えようのないものでなければ意味がない。

まあしかし、そういう努力は、万が一、あの世があったとしたらというもので、徒労に終わる可能性は大なのではあるが・・・

-非凡か平凡かを分けるのは、ただひとえに用意の周到さの違いである。-<私の箴言>

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