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2012年5月11日 / misotukuri

推理小説と犯罪小説を分けるもの

一日に2話ずつ「フリンジ」を見て、「LAW&ORDER」も一話ずつ見てると、本が読めないね。

今、「骨と沈黙」(レジナルド・ヒル)を読んでいるのだが、なかなか進まない。

まだ1/3くらいかな?

ダルジール警視シリーズは、これで「社交好きの女」、「薔薇は死を夢見る」に続き、3作目だが、なかなかいいね。

ただし、「社交好きの女」はほとんど印象にないが・・・

デブで酒飲みで毒舌家のダルジール警視もいいが、脇役の人柄のいいピーター・パスコー主任警部とその妻で純粋なエリー、そして、ついにゲイであることをカミングアウトしたらしいウィールド部長刑事らがそれぞれに楽しくて、人気シリーズだったのが分かるような気がする。

ヘニング・マンケルのクルト・ヴァランダー警部シリーズの陰気さと比べると、変な言い方だが、事件も含めて明るいね。

これは要するに、推理小説と犯罪小説の違いだろう。

ダルジール警視シリーズのような推理小説はあくまで主はフーダニットやハウダニットが問題になる知的エンタテインメントであるのに比し、ヴァランダー警部シリーズやミレニアム・シリーズのような犯罪小説はまあ言えばルポルタージュだ。

フーダニットやハウダニットより、動機や手口や心理が問題で、異常でなければならない。

そして、フーダニットやハウダニットなら頭が良ければ謎は解けるが、動機や手口や心理となると、頭が良いだけでは謎は解けない。

犯人の異常な動機や手口や心理に探偵が共感できなければダメだ。

共感できるというのは、わかり合えるということであり、深いところでつながっている似たもの同士だということだ。

これは、犯罪者と警官の精神構造が似通っているという俗説とよく似ている。

もしそれが真実なら、現実の世の異常犯罪の推理を外してばかりいる迷探偵Jinchanなど、極めて正常な人間と言うことになる。

冗談はともかく、それをきっちり描いたのがトマス・ハリスの「レッド・ドラゴン」であり、「羊たちの沈黙」などハンニバル・レクター・シリーズだ。

映画「ハンニバル」では、当初クラリス捜査官役だったジョディ・フォスターがラストが気に入らず、役を引き受けなかったというが、原作のラストが気に入らなかったのか、映画のラストが気に入らなかったのかで、まるで意味が180度違ってくる。

原作のラストは、犯罪小説として論理的だが、映画は単にクラリスを極めて有能な女性FBI捜査官のスーパー・ヒロインに仕立て上げただけの薄っぺらなものになってしまった。

それともあれは、リドリー・スコットの解釈なのだろうか?

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