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2012年10月9日 / misotukuri

「連環宇宙(VORTEX)」読了-三部作完結編は10年に一度の大傑作

ついに「連環宇宙(VORTEX)」(ロバート・チャールズ・ウィルスン著)読了した。

「時間封鎖(SPIN)」「無限記憶(AXIS)」に続く三部作完結編だが、これは近年にない大傑作だ。

私が読んだSFの中でも最上位グループに入る出来栄え。10年に一度の大傑作間違いなしだ。

SFファンの喜びそうなほとんど全てのテーマが網羅されており、その処理もまたほぼ完璧。

小説としての構成もよく練られていて、論理的にも破綻がない。

人類から次第に離れていった故小松左京に叶うことなら是非読ませてあげたいSFだね。

もう、私としては、べた褒めの限りだが、唯一の欠点は、前二作を読んでおかないと、イマイチよくわからないということかな?

この小説には色々な要素があり、まず目につくのが、文明批評的なところだ。

民主主義を進化させていけば、必然的にこうなるという未来図を提示しているのだが、これをディストピア小説と決めつけるのは、単純すぎるだろう。

そうはいうものの、この小説を読むまでは、民主主義社会の究極の姿がアリやハチの社会に酷似してくるということには思い至らなかったね。

とすると、よほどのリバタリアンででもない限り、多分、みんなそれで幸せなんだろうと思う。

また、昔、映画「ターミネーター」で、カイル・リースの「可能性の未来から来た」という台詞にしびれた記憶があるが、それ以来、私は「可能性の未来」について、地道に考察を進めてきたのだ。

ただその歩みはのろく、堂々巡りばかりしていて、遅々として前へ進まなかった。

ついこの間まで、たとえば、この世界はまさに「可能性の世界」なのだから、「未来」だけでなく、「過去」も「現在」も可能性の存在でしかない・・・でストップしてしまっていたのだ。

ところが、この小説は、我らがそういう「可能性の世界」に生きている存在なら、具体的にじゃあどうなのか?ということを考えさせてくれる。

実に28年ぶりの一歩前進だ。

すなわち、日々、分子レベルで更新されていく存在である我々は、記憶や意識の見せかけの連続感の中で、アイデンティティを疑うこともないわけだが、厳密には、昨日の私は今日の私とは同一人物ではないのだ。

とすれば、この小説で言うように、確かに、昨日の私が犯した罪を今日の私がくよくよ思い悩むなどというのは論理的には愚の骨頂だ。

もっとも、この小説では、1万年の開きがあるが、なに、1日も1万年も本質的には変わりない。

また、どういう選択をしようと、それは可能性の一つに過ぎず、等価的に全てが可能性として存在している以上、それが現実に存在しているかどうかなどは、可能性の存在である自分たちにはどうでもいいことだということにも気がついた。

タイム・マシンで過去に遡って過去をいくら変えても、あなた自身の過去や現在には何の変更もない。

別の「可能性の過去」や別の「可能性の現在」に置き換わっただけ。

それよりも、今、現に生きている他ならぬ自分が、如何に生きるべきかを選択することが大事なのだ。

「・・・たら、」は北海道の教訓はここでも生きていた。

これも実に28年ぶりの小さな一歩前進だった。

とにかく、すごいねこの小説は。

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