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2013年1月9日 / misotukuri

電子図書館で老人哲学入門-「真善美」について

先日入った電子図書館で借りた「硝子戸の中」(夏目漱石著)を読了したので、今度は「善の研究」(西田幾多郎著)だ。

前回WBOOKはVistaマシンにはインストールできなかったが、ダウンロードしたファイルを完全に削除してからもう一度やり直してみたら何とかインストールできた。

インストール先をSSDのC:ドライブに変えたのが良かったのかもしれない。

これでXPマシンで囲碁をしながら、Vistaマシンで本が読める。

まだ序文を読んだきりだが、序文の勧めに従って、第二編から読むことにした。

年老いて若者が書いた哲学書を読むと、若い頃には思わなかったようなことが頭に浮かんでくるから面白い。

まず誰が書こうと、この著者は偉い人だという観念が頭から抜け落ちてしまっているから、客観的に読める。

この「善の研究」だってそうだ。

しかも、著者自身序文で、これは若いときの考えであって今の自分の考えとは違っているのだが、手直しするのも大変なのでこれはこれとしてそのままにしておくということを断っている。

まあ、批判を逃れるには好都合な理屈だな。

芸術作品ならともかく、世界の理を説明する哲学書でそれはないだろう。

世界は白だと考えていたら、実は黒だった。

しかし、まだ黒だという論拠をきちんと示せないでいるので、若い頃は確かに白だと考えていたんだから、世界は白だという著作はそのままにしておこうというのは、いったい何なのだ?

刑事事件なら白黒逆ならえん罪事件になっちゃうよ。

せめて、老年になった今は疑問があるとする箇所に標しでもつけてくれよ。

公平な態度じゃない。

とまあ、いつまでもねちねち序文に文句つけても仕方がないので、本文に取りかかりたいが、第二編まだどれほども読んでいないので、ふと思ったことだけ書こう。

「真善美」について。

「真」は、本来、単にそのもののありようを表す言葉だが、「真善美」と言うとき、「善」「美」同様、特定の価値観に基づくありようとして使用されている。

「真善美」を「真=善=美」と考えるのは、成り立たないことも多々あるので、おかしいことだ。

それなのに、それが成り立つと思いこむから、その矛盾に悩むことになる。

これらはあくまで別個のものなのだと考えれば、そういう悩みもなくなる。

目的が価値を追求することなら、目的的に考えればよい。

すなわち、その目的を達するためには、「真」「善」「美」について、何が必要か?と。

そして、それぞれの選択における妥協点を探る必要がある。

1 全てが必要・・・満足すべきレベルは?

2 一定の割合で必要・・・最適のバランスは?

3 どれか一つが必要・・・切り捨てたものの補完は?

映画や航空機を制(製)作するときのことを考えれば、言っていることが理解できるはず。

もちろん、要求されることは、「真」「善」「美」に限ったことではない。

終末医療の現場で要求されるもの、恋愛や結婚の際に要求されること、実際の戦闘の現場で要求されること等々・・・いろいろ違っているはずだ。

「すっきり整理できていいですわね」だって?

アホか。そうはイカの○○○○なのが、人生だよ。

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