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2013年7月7日 / misotukuri

映画「恋はデジャ・ブ」ーはかなくも1日で消え去る彼女たちよ度

映画「恋はデジャ・ブ」(93年、米、ハロルド・ライミス監督、ビル・マーレイ、アンディ・マクダウェル他)を見た。

うん、こんな映画も見るんだよ、オレも。ロマンティック・コメディ。

ある1日が何回も繰り返されていることに気づいた男が、それを何千回(?)も繰り返す内に、イヤな奴からイイ奴に生まれ変わって、無事、恋を成就させ、時間のループからも抜け出すことに成功する話。

これは、すぐにケン・グリムウッドの「リプレイ」を思い出すが、まあそれに劣らぬ傑作だな。

単なる大人の童話だが、SF読みとしては、もう少し存在論的に解析してみたい。

<主人公は、ある1日がなぜか繰り返されていることに気づくが、他には誰もそのことに気がつかず、昨日(と言っても、繰り返されているから今日のことだが、彼の意識では昨日)起きたことを覚えていないのだ。>というこの映画の根幹的アイデアについて。

彼の主観的時間は正常に一刻一刻と時を刻んでいるのだが、彼以外の事象は多少のバリエーションの違いこそあれ、繰り返される。

「博士の愛した数式」とは反対に、主人公以外全員が記憶障害になったとすると、似たようなことが起きると思うが、そのうち季節が変わるので、それに気がつかないのもせいぜい長くて数週間のことだろう。

だが、この映画の主人公にとっては、天然現象までも繰り返されることから、彼はそれは自分にだけ起きている現象だと結論づける。

何故そんなことが起きてしまったのか?そんなこと、わかるわけない。

とにかく、彼以外の人物にとって、「今日」は「昨日」の次に初めて迎える「今日」であり、再び繰り返される「昨日」ではない。

だが、待てよ。

ということは、彼にとって、「昨日」会った恋人は、やっぱり同じ時間に同じ所で「今日」会うであろう恋人とは、同一人物であって、実は別人というか、「別バージョンの恋人」だということだよな。

その彼女もまた今日が過ぎると彼の前から消えてなくなる1日だけの存在。

そして、再び「昨日」となった何回目かの「今日」が始まり、やっぱり同じ時間に同じ場所で、また別の「別バージョンの恋人」と会うことになる。

これって、ちょっと、はかなくはないかい?

どのバージョンの恋人も同一人物だとすれば、はかなくはないけど。

ま、例えば、この映画めでたしめでたしで終わるんだけど、最後のバージョンの恋人でなく、いくつか前のバージョンの恋人の方が良かったのにというシニカルな場合もあると思う。

だが、消えてしまったバージョンの恋人は、もはや主人公の記憶の中で残っているのみ。

アンフォゲタブル。

http://www.youtube.com/watch?v=nitiMG81DRc

最後のバージョンの恋人?まあ、そこそこだな、ということになると、これは、うーん、悲劇だな。

この映画、SFでいうところの「タイム・ループ」物ではあるのだが、真のSF(そういう言葉は、コアなSFファンでも内々にしか使わない)なら、もう少しそのあたりを突き詰めて考えるところだ。

いろいろな問題を含んだ大人の寓話だが、そもそも、昨日の私と今日の私が同一人物であると疑わないのは、何か根拠はあるのか?

これは実物とそのコピーに大きな差がなければ同一と言えるのか?と言い換えても良い。

今日の私は昨日からの99%の使い回しと1%の更新(%の数字はともかく)で出来ているとしよう。

毎日1%ずつオリジナリティを失っていくとすると、0.99、0.99×0.99、0.99×0.99×0.99、0.99×0.99×0.99×0.99・・・・・となって、365日経つと、0.99^365=約0.069になる。

0.069%しかオリジナル部分がなければ、これはもう、ほぼ別人と言って良い、よく似たコピーに過ぎないことが数字上からもわかるだろう。

ようするに、我々は記憶や意識の継承によって、生物的には実際のところコピーでしかないのに、実物だと思い込んでいるに過ぎないのだ。

まあ、まだ成長している若い頃は、人間形成期であるのでそれでも良いのだが、成長が止まってからは、生物としては崩壊の一途を辿っていると言える。

もっとも、このことは、全ての人間に言えることであるので、この映画のケースとは少し意味合いが違うとは思う。

映画では、彼の記憶と意識を除く生物的に全てと彼以外の人物や世界の事象全てが、「今日」で止まってしまい、明日になると再び「今日」が繰り返される。

これは、前にも映画「デジャヴ」の感想で言ったことだが、まるで、フレッド・ホイルの「10月10日では遅すぎる」と同じで、彼だけが観察者であって、時間の引き出しにぎっしり詰まったファイルを抜き出しては懐中電灯で光を当てて同じ日のファイルに書かれた事象を読んでいるみたいだ。

あるいは、その引き出しは3D映画のブルーレイ(BL)・ディスクで出来ているとも言える。

そして、そのBLディスクを主人公は同じチャプターばかり繰り返し見ているのだが、このBL、なかなかの優れもので、視聴者が自らアバターに入り込み、好きなように編集、カスタマイズ出来るのだ。

ソース・コードのデバッグをアバター・ユーザー・インターフェース(AUI)を使ってやっているということなのだが。

ええ?どうしてそうでないと言える?

何か他に、このタイム・ループ現象を合理的に説明付ける仮説はあるかな?

<追伸2013.7.8>

「別バージョン」をお届けしよう。

昨日(?)、映画「恋はデジャ・ブ」(93年、米、ハロルド・ライミス監督、ビル・マーレイ、アンディ・マクダウェル他)を見た。

ロマンティック・コメディなので、女性にはご覧になった方も多いかと思う。

ある1日が何回も繰り返されていることに気づいた男が、それを何千回(?)も繰り返す内に、イヤな奴からイイ奴に生まれ変わって、無事、恋を成就させ、時間のループからも抜け出すことに成功するというお話。

この映画、SFのアイデア・ストーリーとしても、意外と良く出来ている。

その根幹的アイデアとは次のとおり。

<もしも、自分だけ特定の1日が繰り返されていることに気がついたら、あなたは何をするか?>

劇中で、主人公は他の人たちに「もし、世界が「今日」一日で終わってしまうとしたら何をしたいか?」と問うところがある。

主人公は翌朝目が覚めるとまた昨日(「今日」)が繰り返されることを知っているが、他の人間たちはそのことを知らない。

と言うより、厳密に言えば、他の人間たちにとって、この世界は、彼らの存在も含めて、「今日」一日で消えてしまうのだ!

主人公だけがそれに気づき、皆、本当にしたいことをしろとそそのかす。

主人公自身は、翌朝、また「今日」に復活するので、ぶっちゃけて言えば、どんな酷いことをしても、きれいさっぱり消えてしまうので、何をしたってかまわないのだ!

ただし、主人公自身の記憶だけは消えないので、普通なら自己嫌悪なしに酷いことは出来ないとしたものだが、何せ、彼はイヤな奴なんでね。

劇中、レイ・チャールズで大ヒットした片想いの歌「You don’t Know me」が流れてきて切なくなる。

http://www.youtube.com/watch?v=vNlz5P2pbk8

ところで、彼は、「今日」という日を何回となく繰り返しているうちに、どうしても変えようがないこともあることに気がつく。

たとえば、朝物乞いをしていたホームレスの老人が、凍てつくような夜の街路でうずくまって死んでいるのを見つけ、憐憫の情に駆られ、翌「今日」暖かい衣服を着せ、美味しいごちそうを食べさせてやるが、やっぱり、突然死んでしまう。

担ぎ込んだ救急病院で、医者に「カルテを見せろ」と要求し、それを見るも、「老衰死で、ようするに寿命です」と告げられる。

確かに、寿命なら、それは変えようがない。

しかし、主人公は、そのあたりから、この世界が「今日」一日で終わると彼らが知っていようと知るまいと、せめて彼らに「今日」は本当に良い一日だったと思えるようにしてあげられたら、と思うようになる。

とてもイイ女だが、ガードの固い女プロデューサーを何とかして「今日」一日でモノにしてやろうと、あの手この手で何百という「今日」を繰り返しながら、迫っている内に、いつの間にか、鼻持ちならないイヤな奴から本当にイイ奴へと変身が始まっていたというわけだ。

これをSF的に合理的説明をするとすると、これはヴァーチャル・リアリティのプログラムのソース・コードをアバターを使って、ヴァーチャル空間でデバッグしていると考えたらいいのではないかな?

アバター・ユーザー・インターフェース(AUI)というわけだ。

もう一つ、存在論的に考えると、繰り返される「今日」というのは、「明日」につながることなく消え去って行く「今日」ということでもある。

そのように視点を変えて考えてみると、「存在と時間」についての本質が見えてくる(気がする)だろう。

後の論考は、「今日」が一日で消えてしまうことにまだ気づいていない皆さまにおまかせしよう。

では。

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