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2013年7月17日 / misotukuri

ネット集合知民主主義はこれからだ

今日、インターネットの利用が日常化するにつれ生まれてきたのが、「ネット集合知性善説」とでもいうべき楽観的確信だろう。

これは新しいタイプの危険思想と思うが、こういう考えがなければ、何事も先には進めない。

人間は感情と知性のバランスの具合でだいたいその人の傾向が理解されるが、仮に、感情をX軸、知性をY軸で表し、その程度を-10~+10で表すとすれば、それは次のように座標の位置で表せる。

1型 (+,+)・・・感情も知性も豊かな人 (多分、つきあっていて、疲れる)

2型 (-,+)・・・感情よりも知性が勝っている人 (多分、つきあっていて、うんざりする)

3型 (-,-)・・・感情も知性も乏しい人 (多分、つきあっていて、イライラする)

4型 (+,-)・・・知性より感情が勝っている人 (多分、つきあっていて、頭にくる)

これらのほかに、

0型 (0,0)・・・感情も知性もまあまあで普通の人 (多分、つきあっていて、いいなと思う)

各( )内のコメントは、+-の極値の場合のことなので、私のことをよくよくの人間嫌いだななどと早合点しないように。

さて、あなたはどのタイプか?

実は、私の周りにも、かなり極端な3型と4型の人間がいて、悩まされている。

以上の理解からすれば、「ネット集合知性善説」信奉者というのは、さしずめ2型の人たちだろう。

佐藤優の「読書術」の中に、「読書とは他人の頭で考えることである」という至言がある。

一個の人間の経験なんて、短い人生で高がしれている。

書物には他人の経験が詰まっており、ある本を選んで読む行為は、他人の経験を自己の経験とすることであり、読書遍歴はそれだけで自己表現なのである。

ただし、その反面、映画「グッド・ウィル・ハンティング」の中で、心理学者が撮像記憶能力の持ち主である主人公に、「ああ、その気持ち、ボクにもよくわかる、この前『オリバー・ツイスト』で読んだから、と言うのか?」と言ったように皮肉られることでもあるのだが。

彼らにはそういう傾向があって、人格の形成過程での経験の密度が薄いというか、ほとんど二次的、三次的な経験ばかりしかないから、コンデジ写真のようにそっくりきれいに撮れていても、どこか色に厚みというか深みがない。

黒澤明は、赤の深みを出すため、下地に黒を塗った上に赤を塗らせたというが、そういうことが解るのは1型の人間だけだろう。

ただし、現実(感)の希薄化という現象は、インターネットの出現で加速されたが、別に今に始まったことでもない。

私は、そのことについてつい最近まで、これは現代日本人のほとんどが戦争を知らないからだと思っていたが、そうでもないことが山本七平の「日本はなぜ敗れるのか-敗因21ヵ条」を読んで初めてわかった。

これによると、見えない戦争(現実)というのは、すでに第二次世界大戦以前から始まっていたのだ。

「ネット集合知性善説」というのは、いわばWikipediaのコンテンツと同じで、1人の人が「これはこうなのだ」と言っても、果たしてそれが正しいのか間違っているのか判断しかねるが、1000人の人がいて999人までがそう考えるなら、ほぼ正しいと判断していいんじゃないか?というもの。

多くの人が一つの記事を書き、議論を重ね、記事が修正されて行くに従って、それはより真実へと近づいていくという確信というか信念。

考えてみれば、およそ民主主義的な政治も裁判も学説も皆そういうことで成り立っている。

もっとも、2型の誰もが「それが真実だ」と絶対的に主張しているのではないことは留意すべきだろう。

注釈付きで、「それを真実だとしよう」と言っているだけなのだ。

だが、もちろん、3型はともかく、1型や4型の人間たちは、そういうことにはそれぞれの理由から同意しかねるわけだ。

彼らは、2型の人間の現実認識はあまりにも浅薄(あさはか)で、もっと深いところから見つめなければいけないと考えている。

ここまで来ると、「連環世界」(ロバート・C・ウィルスン著)に出てくるネット民主主義の究極の姿である「大脳皮質系民主主義」と「大脳辺縁系民主主義」みたいだ。

2万年後の未来、人類は宇宙に進出しているが、彼らの政治体制は、大きく分けて、「大脳皮質系民主主義」グループと「大脳辺縁系民主主義」グループに分かれて対立している。

人類はどちらのグループに属そうと、共に、ネットに精神的にも肉体的にも深く結びつけられているのだが、ようするに脳のどこの部位に結びつけられているかによってグループの性格が変わってくる。

「大脳皮質系民主主義」は、知性を司る大脳皮質であり、簡単に言えば、「みんなが同じように考える」グループであり、2型の人間をネットワークでつないだようなものだ。

それに対し、「大脳辺縁系民主主義」は、感情を司る大脳辺縁系であり、「みんなが同じように感じる」グループであり、4型の人間をネットワークでつないだようなものだ。

小説では、未来に再生された現代の人間を「大脳皮質系民主主義」と「大脳辺縁系民主主義」の抗争の中に立たせ、結局は「大脳辺縁系民主主義」の思い込みに基づく破滅を目撃することになる。

ただし、「大脳皮質系民主主義」は、「大脳辺縁系民主主義」ほどは詳細に描かれておらず、そちらの方の「気持ち悪さ」を描いた第4部があってもいいなと、個人的には感じた。

現代から未来に再生された人間というのは、ある意味、1型の人間であり、ようするに、ネットワークである「大脳皮質系民主主義」や「大脳辺縁系民主主義」と違って、出来るだけスタンド・アローンでいたいという個を重視するリバタリアンに近い。

そういえば、2型「大脳皮質系民主主義」はネットワーク・リベラルで、4型「大脳辺縁系民主主義」は、ネットワーク・グラスルーツかな?

3型の人間は、良く言えば、ネットワーク云々関係なしに、従順で、悪く言えば家畜みたい。

だが、民主主義とは、こういう3型のような人たちも含んで、民主主義なのだ。

彼らを心の底では軽蔑しているようでは、民主主義とは言えない。

アリストクラシー(優れた者による支配)か独裁主義(強い者による支配)だ。

まあ、ちょっと、話がずれて行ってしまったが、今の時代はまだネットワーク黎明期と思う。

その時点で、ネット集合知民主主義やネット集合感情民主主義の将来を心配するのは早すぎる。

だが、人間が究極的にはスタンド・アローンであると考える限り、どちらにも未来はないが、そうではなくて、ネットワークで新たな段階に進み得ると考えるなら、どちらもあるだろう。

ただし、その時には、人間は今の人間ではなくなっている。

それは、知性も感情もそのプラットフォームが変化すれば、当然、その変化につれて変化するからだ。

ネットワークに接続された人間は、接続されていない人間のようには考えないし、感じなくなる。

そうなった彼らは、今の我々とはもはや別種の生き物と思う。

昆虫に近い。

安部公房は、「豚に豚みたいだと言っても、怒ったりしませんよ」と言ったが、これまた至言。

たしかに、集合知性を感じさせる蜂やアリなど、昆虫は昆虫であることに結構幸せを感じているんじゃないかと思うね。

私は、「みんなでしっかり議論して・・・を決めましょう」とか、「みんなで心を合わせて・・・をお祈りしましょう」というのは、民主主義的に大事なプロセスだとは思うが、一方で、常に、気色悪いなと思っている。

だって、いくらしっかり議論したって、いくら心を合わせたって、真偽そのものとは別のことだろう?

真偽そのものから目をそらさないことこそが大事と、オレは考える。

オレって、ところで、何型かな?

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