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2013年7月26日 / misotukuri

山口県周南市金峰五人殺害放火事件で考える

事件発生後、6日目の今日、犯行現場の郷(ごう)集落から北北西1.5Kmの山中で、容疑者の保見光成(ほみこうせい63)の身柄が確保された。
映画ではないが、容疑者は北北西に逃走進路を取っていたわけだね。
容疑者の家と遺留品の発見場所とを結ぶ線の中点から一番遠い方向、すなわち直角の方向、2つあるわけだが、地形的にも心理的にも容疑者が向かうのはこの方向しかなかったようだ。
容疑者は、容疑を認め「死にきれなかった」と供述しているらしい。
だが、しかし、これで死刑は決まったようなものだ。
精神異常者の犯罪の場合、たとえ薬を飲んでいたにせよ、責任能力の有無が問題となるが、今回の場合は、犯行の結果を十分認識していたから、自殺しようとして逃げたわけで、心神耗弱を主張しようにも、これではもうどうしようもないね。
裁判は、動機の解明だけになろう。
直接の動機はともかく、遠因は、約10年前に酒席で口論の末、今回の被害者の一人に鋭利な刃物で刺されたことだろう。
たまりにたまったうっぷん(直接の動機)と前回の復讐(遠因)。
その時の加害者であった今回の被害者の罪は罰金刑で償われ、刑法的には一応終わっている話なのだが、誰だって、それで全て償えたとは思わないだろう。
なぜなら、結果的に罰金刑で済んだとしても、殺そうとしたことに変わりはなく、やられた方は自分を殺そうとした奴を許せるはずがない。
やった方も罰金刑で済んだことについて何の反省もなかったようで、彼らの関係は事件後ますます悪化の一途を辿ったようだ。
10年くらい前、警察白書を読んだことがあるが、その中で受刑者のアンケートを見たら、確か、「同じ状況になったらまたやるか?」と言う質問に「またやる」と答えた受刑者の方が多くて、犯行の動機となった憎悪の強さをまざまざと見せつけられたような思いがしたことがある。
これと同じで、刺した方は、検事や裁判官の前ではしおらしく反省して見せても、憎悪の念はますます強く、今度やるときは必ず仕留めてやろうとでも思っていたに違いない。
それで、保見容疑者をイライラさせるため、悪口を広め、村八分に追い込んだ。
そうすれば、また何かで必ず仕留められる状況がやってくると計算していたのだろう。
もちろん、単に保見容疑者の危険性を警鐘しつづけていただけかもしれないが。
一方、保見容疑者の方も、彼のそういう態度がわかるものだから、妄想を募らせ、やられる前にこっちからやってやれと思うようになったのだろう。
私は何も容疑者の肩を持っているのではない。
犯罪の被害者については、通り魔殺人のように被害者に全く落ち度のない場合もあるが、喧嘩している者同士の間で起きた犯罪では、被害者にもそうなった一端の責任はあるのではないかと考えるだけだ。
決してリンチや私的報復を容認しているのではない。
幸い私の近所では、殺人などという凶悪事件が起きたという話は何十年も聞いたことがないが、新住民というか、最近、入ってきた人々の中には、どうかと思う人がいない訳でもない。
見ていて、いかにも加害者になりそうな人間、また逆にいかにも被害者になりそうな人間というのは、本人はそのことを一向に解っていないんだね。
加害者はともかく、ハラハラするのは、被害者になりそうなタイプの方だ。
誰かがどこかで瞋恚の炎(しんいのほむら)を燃やしながらじっと見ているかもしれないのに、この人はそのことに頭がまったく及ばないのだろうか?と思うね。
ところで、何か昔書いた徳山高専女子学生殺害事件の記事の閲覧が急に増えたと思ったら、ひょっとして、徳山も周南市?
あの事件では、被害者の女子学生は、こう言っちゃあ何だが、”掃き溜めに鶴”的存在だったらしいね。
この事件とは、何の関係もないのだろうが、周南市もイヤなことで名前を売ったね。
では。
<追伸2013.7.30>
「つけ火して煙り喜ぶ田舎者 (某)」の貼り紙の解釈だが、私もあるとき東京でチンピラに「田舎者!」と罵られたことがあるので、保見容疑者が自分のことを指して言っているとは思えないのだが、あえて自虐的に言っている可能性もある。
どちらを採るかで、意味はまるっきり違ってくる。
だいたい、「田舎者」という言葉は、侮蔑する言葉なので、自分を田舎者として肯定的に捉えている人間は決してこういう用法はしない。
保見容疑者は、車の趣味とか見ると、アウトドア志向で田舎の生活自体は好いていても、身の回りの田舎の人間関係は憎んでいたようだ。
伏せられた(某)の名前が、(保見容疑者の名前だろうと思うが、)何であろうと、これは保見容疑者が誰か(殺された5人の中にいる)を告発しようとして書いたものだろう。
それが妄想なのか、事実なのかはわからない。
だが、少なくとも保見容疑者はそう思い、「オレはお前がつけ火したことを、ちゃんと知ってるぞ」と警告したものだと思う。
1コマ漫画で、「精神病患者もの」というジャンルがある。
その中には、実際に起きていることなのに、自分では妄想に悩まされていると思い込んでいる患者を笑うものがある。
ホラー映画の知る人ぞ知る大傑作「呪われたジェシカ」では、最後にジェシカは信じがたいことが起きていることについて、それが現実なのか精神がおかしくなった自分の幻覚なのか、わからなくなる。
もしかしたら、保見容疑者も同じで、彼としては、自己防衛的に行動しただけかもしれない。
彼が郷集落で孤立していたのは確かだが、近所の人たちの話も一方的で、よその人の保見容疑者像と落差がありすぎて、話半分に聞くしかないと思う。
彼もジェシカみたいなジレンマに立たされていたのだと思う。
異常な事態が起きていることを現実として認めるか、自分自身の狂気を認めるかというジレンマ。
この程度だから、責任能力があるとされても致し方ないだろう。
「世の中みんな狂ってる!」とちょっと頭のおかしい人間が言っているのと同じ。
特有の鋭い感受性でとらえたように、本当に世の中のみんなが狂っているのか、それとも、単にそいつ自身が狂っているのか?
そいつには、なかなか難しいところだ。
<追伸2013.8.3>
「つけ火して・・・・」だが、どうやら、本人の解説があったようだ。
それは、「田舎者」の解釈は、村人のことを指しており、前の「つけ火して煙り喜ぶ」は本人のことで、全体の意は、保見容疑者が放火したと田舎者の村人が保見容疑者の悪口を言いふらしているというものらしい。
嘘だろう。
いや、その前に、何かが省略されているのかも。おそらく・・・・
(自分がやったくせに)保見容疑者が放火したと田舎者の村人が保見容疑者の悪口を言いふらしている、とか。
この「(自分がやったくせに)」という部分がカットされている。
このことによって、ニュアンスが全く違ってくる!
しかも、嘘とまではいかない。
今回、殺人して放火したのは保見容疑者だから、前の放火騒ぎも保見容疑者がやったのだろうと確信しているから、こんな「意識上の切り貼り(編集)」をしてしまう。
これがどうして「今回の放火を予告したような異様な貼り紙」になるのか?
見る目が曇っている。
貼り紙を書いたのが誰なのか(筆者)を考えてその人間の気持ちを推し量ることが肝要。
保見容疑者(筆者と推定)自身が放火したことに自覚があれば、ああいう貼り紙は書けない。

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