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2013年9月14日 / misotukuri

瀬名秀明の「擬眼」で人類の進化の方向性を考えた

 小説宝石特別編集「SF宝石 ぜーんぶ!新作読み切り」を読んでいる。
 まだ、瀬名秀明の「擬眼」と新井素子の「ゲーム」を読んだだけだが、なかなか面白い。
 「擬眼」は、私のようにネット時代の写真撮影が趣味で両目の手術を受けた人間としては、身につまされる。
 全然違うアプローチだが、ロバート・C・ウィルスンの「連環宇宙」と似たイメージを持った。
 というのも、今日、ネットが我々の生活の隅々に浸透して行く中で、ようやく人類の進化の方向性が見えてきたように思うのだ。
 それは、我々の過度のネット依存、というよりむしろネットとの一体化ということだが、現象的にはそれが進行することにより、既に我々の社会は昆虫の社会に似てきているように思える。
 女王蟻(蜂でも何でもいいが)=ネットの巨大集合知であり、その下に能力的に役割分担された蟻がいる。
 参謀蟻=知的専門職従事者、兵隊蟻=暴力機構従事者、繁殖蟻=優良遺伝子保有者、労働蟻=ルーチン労働従事者、ボヘミアン蟻=冒険家、芸術家、宗教家の類い・・・
 私など、さしずめ用済みの廃棄待ち退役グループだが、現役諸君の士気を維持するためにだけ養われている。
 おや、政治家集団がいないじゃないか?と言うかもしれないが、ネット社会と現実社会が一体化するにつれ彼らは原理的に不要な存在となる。
 ネット投票解禁は、政治家にとってトロイの木馬だ。
 この「擬眼」は、ネット化が今以上に進行し、集合知に対する人間のインターフェイス化、一昔前なら逆の表現でマン=マシン化とかサイボーグ化と言っただろうが、それが進行した時代に、人間のインターフェイスのパーツ(「擬眼」)自体が昆虫的な意識を持ち始めたらどうなるかと言うのをシミュレーションして見せたものだ。
 わかりやすく言うと、コンタクトレンズに通信機能を持たせることによってネット利用の利便性を高めたところ、眼というのは脳の一部が露出して出来たようなものだから、人間の脳にネットがダイレクトに接続したようになり、ネットの巨大集合知が逆にコンタクトレンズを通じて人間の脳に作用し始めるというコワイ話。
 確かに、ある時点まで行けば、ネットに存在する巨大集合知にとって、インターフェイスとしての人間は必要なくなる。
 瀬名秀明は、レイ・カーツワイルの「スピリチュアル・マシーン」や先の「連環宇宙」のようなネットと人間の麗しい関係を保った人類の進化というのはあまりにも人類にとって都合の良すぎる幻想に過ぎないんじゃないか?という疑問を呈して見せた。
 基本的にはスタンドアローンを維持しつつネットを利用したい私のような古い人間にとっては、まったく不愉快な作品だ。
 要するにネット民主主義なんてのは、昆虫社会化するということで、「軒(庇)を貸して母屋を取られる」と言うことになるという警告だな。
 ネット民主主義の結晶である集合知が、必ずしも多くの人々がネットを通じて形成した英知とは限らず、ネット上にいつの間にか発生した集合知がそのように思わせているだけかもしれないからだ。
 それでもネットとリアルが共存している間は、ネット投票では民主党が圧勝するはずなのに、現実の投票では自民党が圧勝したなんてことが起きるが、全部がネット上で行われるようになると、実際にはどちらが圧勝したかわからなくなるということだ。
 というのも、ネットと人間との結びつきが強ければ強いほど,人間とネットの集合知は相互に影響を与えるようになり、やがて人間はネットの集合知が考えるように考えるようになるし、感じる(?)ように感じるようになるからだ。
 しかも、ネットの集合知などというものは、人間の心と同じくどこにあるのかよくわからないしろもので、私の言うこともインチキかホントか判別できない。
 ネットの集合知がインターフェイスとしての人類を必要としなくなり、この小説のようにネットに接続した人類を抹殺してしまった後でなければ決してそれはわからないのだ。
 人間はネットにつながろうがつながるまいが、洞窟にいてイデアの影を見ていることに変わりはない。
 大勢の人々とつながっている一体感は、ネットが与えてくれるイデアの影かどうかもわからぬ幻想に過ぎない。
 久しぶりにSFを読むと、やっぱり、こういうことを考えてしまう。
 これがSFの効用というものだな。

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