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2013年10月3日 / misotukuri

映画「冬の光」-牧師や坊さんでなく・・・

 映画「冬の光」(1962年、スウェーデン、イングマル・ベルイマン監督、グンナール・ビョルンストランド、イングリッド・チューリン、マックス・フォン・シドー他)を見た。
 ベルイマンの映画は、「夏の夜は三たび微笑む」、「第七の封印」、「野いちご」、「女はそれを待っている」、「処女の泉」、「鏡の中にある如く」、「沈黙」、「秋のソナタ」、「ファニーとアレクサンデル」を見た記憶があるが、他にもあと2,3本あるかもしれない。
 私が好きなのは、まず「第七の封印」、そして、「野いちご」、後は色々あるが、それぞれに面白かった。
 この「冬の光」は、「鏡の中にある如く」と「沈黙」の間に位置する作品で、いわゆる「神の沈黙」三部作の一つだ。
 難解と言われるベルイマンの作品群の中にあって、一番ストレートに「神の沈黙」とは何か?について描かれているので、もっと早く見ておけば良かったと思っている。
 イエス・キリストが信仰を失った時はいつか?
 そもそも神の子であるイエス・キリストが神の存在を疑うことなどあったのだろうか?
 もちろんあった。
 十字架にかけられ槍で突かれて絶命する前に、「わが神、わが神、何故、我を見捨て給いしぞ!」と言ったと新約聖書に書かれてある。(マタイ伝27-46「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」)
 これが「神の沈黙」の始まりだ。
 我が子、イエス・キリストの悲痛な呼びかけにも、神は沈黙したきりだったのだ。
 十字架の上で、イエス・キリストは思う。
 あれっ?
 オレって、ひょっとして、間違ってたのかも。
 ゴメン、神なんて、いないんだわさ。
 そーだよね、いたら、これだけ呼んでるんだもん、返事くらいするよな。
 悪い、悪い、ま、いまさらチャラにもでけんから、オレの話もいいとこだけ取ってちょーよ。
 うーん、それにしても、これ、痛ェーよな。
 ・・・とまあ、これは冗談だが、これが神の子イエス・キリストからナザレのイエスに戻った瞬間であった。
 この映画「冬の光」では信仰を失った牧師が登場する。
 主人公は、スペイン動乱で従軍牧師として行っていたときに信仰を失いかけ、5年前に愛する妻を亡くしたときに完全に信仰を失ったと言うが、それでも職業としての牧師は勤め続けている。
 彼の周囲の教会関係者も誰一人として神の存在を信じる者はいない。
 むしろ、教会にやってくる信者たちの方がよっぽど信心深そうだ。
 しかし、自殺者が出て、その妻に「一緒にお祈りしましょうか」と言うと、「結構です。葬式の時にはまた相談に行きます」と断られる。
 おや、何だ、一皮剥けば、スウェーデンも日本と変わりないではないか。
 キリスト教も仏教も葬式宗教に堕している。
 私は思うのだ。
 牧師や日本の仏教の坊さんなど、妻帯しているが、彼らはどのようなつもりで宗教的儀式を勤めているのだろうか?とね。
 自分らの説教を自分でも信じているのだろうか?
 しかし、こうもまた思う。
 宗教で大事なのは、神仏を信じることであって、牧師や坊さんを信じることではない、と。
 だから、牧師や坊さんが妻帯していたって、彼らが自分では信じていなくても、どうでもいい。
 キリスト教ならキリストの教えが、仏教ならお釈迦さんの教えが、信じられるかだ。
 世界観としてはともかく、如何に生きるべきかという点では、えーこと言ってるでねーの。
 仏教は本来、無神論の宗教だが、造物主としての神仏は存在したとしても決して全能ではないと思うのが、現代人のごく普通の考えと思う。
 ウチのかみさんも、神社仏閣を訪れる度、わずかなお賽銭でたくさん願い事をするが、ああいうのはちょっと信仰心としてはおかしいと思う。
 「その賽銭では足らんと言われるぞ」と言うと、「そやな」と笑っているから、本気で神仏を信じているとも思えんし、ようわからんな、精神構造がどーなっとるんか。
 でもまあ、いいのだ。
 オレの理解の仕方が、ちょっと理に走っているだけで、宗教とはそんなものなのかもしれないからな。

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