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2014年1月5日 / misotukuri

去年読んだSF・ミステリ・ベスト3

 映画の次は、SF・ミステリのベスト3。
 のっけから残念ながらSFは該当作なしだ。
 一応、年末に読み終えた「WOOLウール」(ヒュー・ハウイー著)のみが、語るに値する作品かなとは思うが、これは小説としてより、社会現象としての意味があるように思うので、ベスト作には上げない。
 というのもこの作品、アメリカの国家安全保障局(National Security Agency=NSA)によるインターネットや 通話記録の監視が発覚した問題とも無縁ではなさそうだからだ。
 この小説の舞台である地下144階建てのサイロは、監視国家と化したアメリカの象徴とも言える。
 何百年もこの地下サイロに暮らす住民たちを真に支配しているのは、IT部の責任者であって、民主的に選出される市長でも、保安官でもない。
 IT部は、住民達を監視する一方、住民達には「由らしむべし知らしむべからず」で、掟を守らせ、秩序を維持している。
 しかし、長年の内にはこうした体制に疑問を持ったり、反抗する人間が時々出てくる。エドワード・スノーデン氏のような。
 そういうアレゴリーでこの小説は理解すべきと思うのだ。
 知的なだけの人間は、スノーデン氏を支持するように、作品の出来不出来に関係なく、この作品の意図を支持するだろう。
 だが、ベストSFを選ぶに当たって、意図は重要でない。
 だから、ベストには選ばない。
 一方、ミステリは、MWA賞受賞作を中心に読んだが、確かにレベルは高い。
 高いけれども、受賞作が本当に各年間のベスト1かは疑問がある。
 多数決で選ぶ世の中の受賞作全てに言える話だが、悪く言えば可もなく不可もなしというのが多い。
 さらに、出版社の論功行賞的な意味合いもあり、作品そのものの出来映えとはあまり関係がないようなところで決まっている感なきにしもあらずだ。
 その点、個人の選考では、ズッコケもあるが大傑作もあって、どっちつかずはまずない。
 それは、選ぶ基準が明確だからだと思う。
 だが、「どうしてこれをベスト1に推すのですか?」と聞いても、必ずしも明確に答えてはくれず、たいてい、「これはあくまで自分の好みです」とか言ってはぐらかされることが多い。
 これは、多分、もちろん基準がないことはないのだが、それを他人に言うことにはためらいがあるのだろう。
 何故なら、読書といえども極めて個人的な嗜好となれば、これも自己表現の一つであり、他人に自分をさらけ出すことになるからだ。
 例えば、団鬼六の小説がいくらスゴイなと思っていても、彼がマルキ・ド・サドくらいにまで崇め奉られるにはまだしばらく時間がかかるだろう。
 そういう小説をベストに選ぶと、おや、あなた、そーゆー趣味だったのねーと、ややこしくなるからいけない。
 1950年代から60年代にかけての荒地出版社版の年間推理小説ベストなんとかというのを数冊持っているが、これは年ごとにアンソニー・バウチャーとか、ブレット・ハリディとかデイヴィッド・C・クックとか個人の編纂によるものだ。
 彼らは前書きとか後書きで、それぞれの選考基準を書いている。
 その中で、今も記憶に残っているのが、
 1.「常軌を逸するまでにユニークなストーリー」 と
 2.「巧妙で鮮烈なプロット」
という言葉だ。
 そして、ストーリーとプロットに秀でていること、それはいまだに私の選考基準として頭の中に居座り続けている。
 そのほかの要素は、いわば「彩り」だ。
 まあ、非常にテクニカル(技法的)に捉えているのだな。
 長々と書いたが、そういう基準で選んだ作品が、次の3作だ。
 1.「三つの秘文字」(S・J・ボルトン)
 2.「遙か南へ」(ロバート・R・マキャモン)
 3.「喪失」(モー・ヘイダー)
 どれもこれもスゴイとしか言いようがない作品だ。 

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