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2014年1月12日 / misotukuri

電子ブックリーダーで「方丈記」を読む

 Wi-Fiが使えるようになったので、娘にもらった電子ブックリーダーのKoboでも接続してみた。
 相変わらずこのタッチパネル式の入力キーボードの使い勝手が悪いが、何とかSSIDとPWを入力し、接続に成功。
 早速、「青空文庫」を検索し、何か軽いものをと探していたら、「方丈記」があったので、ダウンロードして読んでみることにした。
 「方丈記」を読み通したのは高校生の時以来だが、何とよく分かることか。
 受験生の頃は、序の文の名調子以外、何の興味も持てなかったが、さすが日本三大随筆と言われるだけある。
 わかりやすいのは、句読点を打ってあるせいもあろうが、歳のせいが一番だろう。
 まあ、どうしても、分かりかねる部分の解読のため、iphoneのアプリにEvernote5を入れてある(これも娘に最初に入れて貰った)ので、それに現代語訳をクリップしたものを開いて、参照しつつ読んだ。
 なお、Windows版のEvernoteはここからダウンロードできる。
 https://blog.evernote.com/jp/2013/09/05/15017
 これは非常に便利なので、PCとスマホをWi-Fiで使っている人には絶対オススメだ。
 PCでクリップしたものがiphoneですぐに見られる。
 さて、「方丈記」だが、
 「序」の具体例として、安元の大火、治承の竜巻、福原遷都、養和の飢饉、元暦の大地震と、人民にとっての災難が語られ、最後に我が身と住処(境遇)とのはかなく徒なる関係も同じようなものだと語られていく。
 「序」の冒頭の文、
 「ゆく川の流れは絶えずしてしかももとの水にはあらず。
 よどみに浮かぶうたかたはかつ消えかつ結びて久しくとどまることなし。
 世の中にある人と住処とまたかくの如し。」 
 ・・・は、ここまでの要約であり、そして、そこからは続いて、そのようなこの世の実相を見てしまった鴨長明が隠遁し「方丈記」を書くまでに至った軌跡が綴られていく。
 現代においても鴨長明の頃においても隠遁というのはなかなかにしづらいことで、同じくこの世の実相を悟っても、市井にあって在家するのがせめてものなぐさみであることが多いもの。
 人の命は短くて達成できることの少なさを思うと、ついつい絶望し、達成への努力を断念放棄してしまいがちになるものだ。
 一方、死ぬ日の朝までラジオの外国語講座を聞いて勉強していた後期高齢者もいる。
 まさに「朝に道を聞かば夕に死すとも可なり」(『論語・里仁』)だ。
 「隠遁」は、この世の実相の更なる探求を断念放棄し、そのあたりで自らを完結させるということで、「在家」は、自らの限界を知りつつも完結させず、この世の実相を探求し続けるということ。
 いずれの生き方が好ましいか?
 友や連れ合いに先立たれたら、隠遁というのもいいかもね。
 もっとも、こっちが先にくたばりそうだが・・・
 こんなことを思ったのも「方丈記」の効果か。

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