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2014年8月2日 / misotukuri

映画「ブラインドネス」と「ヒプノティスト/催眠」の限界度

 昨日は、ダブル・フィーチャーで映画を見た。
 今年見た98本目、「ブラインドネス」(08年、日・ブラジル・カナダ、フェルナンド・メイレレス監督、ジュリアン・ムーア、マーク・ラファロ、木村佳乃他)。
 99本目、「ヒプノティスト/催眠」(12年、スウェーデン、ラッセ・ハルストレム監督、ミカエル・バーシュブラント、レナ・オリン他)。
 この二本、映画表現の限界のようなものが見えて、作品自体の完成度とは別の意味で面白かった。
 これもダブル・フィーチャーの効果か?
 「ブラインドネス」は、パニックSFだ。
 信号待ちしていた日本人男性が突然、ホワイトアウトした感じで失明する。
 彼を助け、家まで送り届け、車をそのまま盗んだ悪党も感染したのか失明する。
 翌日、日本人男性を診察した眼科医も失明し、街中がパニックになる。
 すぐに国家が乗り出してきて感染失明者を隔離し、その第一陣が日本人男性とその妻、車泥棒、眼科医者とその妻(彼女はなぜか失明していないが夫に付き添うため一緒に施設に収容される)等々20人くらい。
 その後も続々と感染失明者は増え続け、収容施設は満杯になり、収容施設内で食料の配分を巡ってサバイバル闘争が始まる。
 その間にも、感染失明は国中で増え続け、恐らく世界中に広がって行く。
 感染のスピードが速すぎて、原因を究明するのも不可能な状態で、あっという間に文明が滅びてしまう。
 この映画は、寓話だね。
 この全世界に広がった感染失明者というのは、要するに現実が見えない無知蒙昧な「大衆」の象徴。
 生き残るために人間は戦わざるを得ないし、その結果、少数の強い者が多数の弱い者を支配する。
 少数の圧制者を倒すのも少数の強者であって、多数の弱者は新たな支配者の元に庇護を受けるだけ。
 しかも、その新たな支配者の善意には、限界があり、無限の善意は不可能なことなのだという・・・・
 この映画は、最後に「希望」という救いが用意されているが、これも「パンドラの箱」の神話のアナロジー。
 「希望」を見つけ喜びに沸く依然として盲目の人々を尻目にベランダに出て行く最後まで感染しなかった唯一の「覚者」の複雑な心境に思いをはせるナレーションでこの映画は終わる。
 これは傑作だ。
 だが、これを見る観客にその寓意がわかるだろうか?
 この「覚者」の善意の描写についてだが、第一隔離病棟のしかも自分の気に入った人間しか庇護的関心を持てないところをもっともっと冷酷に描くべきだった。
 そうしないとわからないだろう?
 だが、それを描くと、あまりにもシニカルで商業ベースには乗らないと判断したのだろう。
 そこがこの映画の限界だ。
 ところで余談だが、木村佳乃はやはりきれいだね。
 次の「ヒプノティスト/催眠」は、スリラー映画としては、まあ、これでもいいだろう。
 しかし、とうていラーシュ・ケプレルの原作の面白さには敵わないね。
 精神疾患を抱えた患者の催眠を使った集団治療の話など、複雑な話は全部省略されている。
 これでは催眠療法の有効性と危険性がわからないし、スウェーデンのいかにも人口が少ない感じも出ていないし、スウェーデン社会の問題もわからない。
 単なるハリウッド流の娯楽映画にしかなっていない。
 「ミレニアム」の映画化と同じく、省略されたところが面白いのに。
 では。

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