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2014年8月5日 / misotukuri

長崎高一女子同級生殺害事件-社会は「狼と羊と牧羊犬と羊飼いと牧場主」の関係だ という思想

 長崎高一女子同級生殺害事件と神戸連続児童殺傷事件との類似性には驚くばかりだ。
 こういうサイコパスというのは、果たしてどれくらいいるものだろうか?
 捕食動物であるライオンは1頭につき獲物のヌーが常に300頭いなければ生存できないという話を何かで読んだが、その比率はともかくまあそうしたものだろう。
 犯人の女子高生は身近の同級生達をまるで獲物を見るような目でじっと観察していたのだなと思うとぞっとする。
 まるで鶏小屋でニワトリとトマコ(イタチ)を一緒に飼っているようなものだ。
 長崎高一女子同級生殺害事件の犯人は、これから酒鬼薔薇聖斗(少年A)と同じ運命を辿ると思うが、直感的には薬物投与しても治癒不能だと思う。
 ただし、彼らサイコパスについては、その優れた面も合わせて理解しなければ、すぐにそんな危険なDNAは根絶やしにしてしまえといった優生学的議論に陥ってしまう。
 だが、こういう事件が起きる度、われわれの社会はつくづく「狼と羊と牧羊犬と羊飼いと牧場主」の関係だなと思う。
 この事件も羊たち大衆には、猟奇的な恐怖の記憶だけが残り、やがて詳細は忘れられていくだろう。
 こういう事件を執拗にいつまでも追いかけているのは、同類かそれに近い種類の人間のみとなる。
 今読んでいる「ブラインドサイト」(ピーター・ワッツ著)はようやく下巻の中程まで差し掛かったところが、映画「ストーカー」(アンドレイ・タルコフスキー監督)に似ているね。
 私には封切り当時あの映画の先進性が理解出来なかった。
 多義性に富む映画なので、今でも完全に理解出来ているとは言い難いが、似た話で「ブラインドサイト」の中にこういうのが出てくる。
 <存在形態が全く違った理解を絶する宇宙生命体とファーストコンタクトした場合、取り得べき合理的選択肢は一つしかなくて、まず攻撃して、相手を殺して(無害化して)から捕捉した上で、相手を研究する。
 何故なら、相手の意図を見極めようと様子を見ている時間的余裕がおそらくないからだ・・・>という。(<>内は、正確な引用ではない)
 問題は、そういう考えの妥当性ではなく、まさにそういう風に考える人間および集団が現に存在しているということだ。
 彼らはこちらの思惑と関係なく、自らの防御的行動として、遭遇するやいなや、ただちに攻撃をしかけてくる。
 こういう場合、彼らは最初から自分たちのしていることを明確に理解した上で行っているので、こちらとしてはグズグズどうしていいかわからないでいると致命的後れを取る可能性がある。
 たとえば、あなたがまだ赤ちゃんで、初めて蚊が自分の方に飛んできたのを見つけたとする。
 蚊に咬まれて痛い目に遭わなければ、これは先にやっつけなければやられると理解出来ないだろう。
 サイコパスは蚊と同じで、自分のやろうとしていることを明確に理解している。
 そして、遭遇した相手の考えがわからないときは、まず攻撃し無害化することを試みる。
 その結果、惑星間戦争が勃発しようと知ったことではない。
 人類全体の運命より自分の命の存続を優先させるのだ。
 これは、あくまでファーストコンタクトのときのことで、その後の力関係が判明すると、捕食動物としてより正しい選択を行う。
 このように、自らの行為に一切の迷いがないところが、われわれ普通の人間と違っているところだ。
 われわれの社会にもそういう少数の人間が各界各層にいる。
 必ずしも成功者ばかりではなく犯罪者や落伍者にもいる。
 しかし、共通しているのは、IQに関わらず、自分の行為を明確に知っていることだ。
 TVドラマに「グリム」というのがある。
 われわれの人間社会の中には実は人間の顔をした魔物が溶け込んで生活しており、グリムの末裔にはその魔物の真の姿が見えるのだそうだ。
 このドラマはそういう魔物とグリムとの闘いの話で、なかなか面白い。
 この魔物は自分が魔物であることを知っており、グリムも自分がグリムであることを知っている。
 お互いがお互いの真の姿を知っている(見ることが出来る)のだ。
 知らないのはごく普通の大多数の人間達。
 これは、まさに「この社会は『狼と羊と牧羊犬と羊飼いと牧場主』で成り立っているのだ」という思想そのものではないか。
 そういう構図(構造)を念頭において、いろいろなSF等を見直すと結構それに当てはまるものがある。
 面白い。
 では。

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