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2014年8月16日 / misotukuri

映画「アウトロー(1976年)」と「インファナル・アフェア 無間道」の何故にそこまで度

 昨日は、映画をダブル・フィーチャーで見た。これで107本目と108本目。
 昼過ぎに「アウトロー(1976年)」(76年、米、クリント・イーストウッド監督・主演、チーフ・ダン・ジョージ、ソンドラ・ロック他)。
 夜、「インファナル・アフェア 無間道」(02年、香港、アンドリュー・ラウ監督、トニー・レオン、アンディ・ラウ他)。
 共に90点をつけてもいいくらいの傑作だが、まあ、一つずつ行こう。
 「アウトロー(The Outlaw Josey Wales:1976年)」は、アメリカの南北戦争終結直後の話。
 戦争終結後も降伏せずゲリラ活動をしていた旧南軍の敗残部隊もついに力つき、投降・武装解除に応じたのだが、復讐に燃える北軍部隊に連邦法により犯罪者として処刑するとして虐殺されてしまう。
 かろうじて生き残った主人公らは、北軍兵士を多数殺したことで、連邦法に従わない”アウトロー”として追われることになる。
 アメリカ南部の大自然の中の逃避行で、見事に敵を欺き、強きをくじき弱きを助け、その都度、同行者を増やしていく主人公は次第に有名な存在になっていく・・・
 日本で言えば、少し後の戊辰戦争(戊申の役1868~69年)の元新撰組の土方歳三とか沖田総司と同時代のアナロジカルな出来事と言える。
 だが、日本では彼らについて、この「アウトロー」のような描き方は可能だろうか?
 特に、交戦者資格を有しない人間による戦闘行為に対する法的位置づけについて考えると、この「アウトロー(The Outlaw Josey Wales)」という映画の制作時点(ベトナム戦争終結直後、アメリカ建国200年)での考え方が反映されていると思うが、それを考えない限り、この主人公が何故アウトローと呼ばれるのか、意味がわからないだろう。
 主人公のジョージー・ウェールズは、頭のいいマッチョな義侠心に富む善人で、こういう人間は常に苦難に巻き込まれやすく、しかもその都度、ギブアップせず、乗り越えていくものだから、普通の人間には手に負えない。
 普通の人間は、いい加減なところで、彼に関わる事から手を引くしかないのだ。
 次の「インファナル・アフェア 無間道」を見たのは、これで2回目。
 初めて見たときほどの衝撃はなかったが、その分、作品を詳しく見られたと思う。
 最初に同時に警察に送り込まれる6~7人(不覚にも人数を数えていないので?)の青年達がサムの訓示を受けるシーンがある。
 これは伏線になっていたのだが、サムの訓示にばかり気を取られていて、そのことに気がつかなかった。
 また、ヤンとラウが警察学校で同期生だったということで疑問に思うことがある。
 ヤンは潜入捜査員にスカウトされ、警察学校を卒業する前に不名誉退校という形で、同期生仲間から姿を消した。
 ラウは警察学校を優秀な成績で卒業し、現場に配属されてからも着々と手柄を立て出世していった。
 二人が10年後再会しても、互いを忘れていたのは理解出来るが、ラウの同期の中には同じくサムの訓示を聞いた手下がいるということは、ラウにはわかっていたはずだ。
 どこの国でも、警察学校の同期生の結束はものすごく強く、顔や人物、今どこの勤務で何をしているかということは常に頭に入っている。
 ラウだけが同期生、しかも同じサムの訓示を受けた同期生のことを忘れていたなんてことはあり得ない。
 このあたりは、マーティン・スコセッシのリメイク「ディパーテッド」の方が説得力がある。
 ま、それだけだな、欠点は。
 この潜入警官というのは、日本でも公にされてはいないが、もちろんあるわけで、ヤクザや右翼や左翼やカルト宗教団体などの中に潜入している。
 時々、警官の不祥事が起きて、懲戒免職という事件があるが、その中にはこの映画のラウのように潜入するために不名誉退職という形を取ったものもあると思うのだな。
 だから、そういう報道がある度に、鬼の首でも取ったかのように反警察的言動をする文化人が必ず出てくるが、彼らも実は警察の協力者で、潜入をバックアップしているのかもしれない。
 何事も話半分にして、自分で考える癖をつけておかないと、単に刺激に流されるだけのおバカな人間になってしまう。
 ただ、このラウにしてもそうだが、潜入が長くなると、その偽りの世界での人間関係が限りなく真実なものになってきて、ようするに「ミイラ取りがミイラになる」現象が起きてしまう。
 だから、たとえば香港のような小さな世界では、3つも別の組織に潜入させるなんてのは、無理なのだ。
 そこらも、疑問と言えば疑問かな?
 では。

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