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2014年9月3日 / misotukuri

映画「モスダイアリー」の覚醒者の孤独度

 昨夜は、またしても2本立てで映画を見て、ついに年間目標の120本に達した。
 119:「メッセンジャー・オブ・デス」(88年、米、J・リー・トンプソン監督、チャールズ・ブロンソン、トリッシュ・ヴァン・ディーバー他)
 120:「モスダイアリー」(11年、カナダ、アイルランド、メアリー・ハロン監督、サラ・ボルジャー、サラ・ガドン、サリー・コール他)
 119:「メッセンジャー・オブ・デス」は、初めて見たが、刺激の強くなった今日見ても一家7人惨殺という衝撃的なイントロで、途中の展開も意外性とスピード感があり、全ての争いごとを象徴する話であり、またきちんと伏線も張られていて、これはまあブロンソンの傑作ミステリ映画と言って良いだろう。
 ただし、ラストが現在の水準からすれば、あまりにも単純すぎる。
 どんなドラマでも、今では、まだそこから一ひねり二ひねり展開があって、真相解明は霧の中というのが、普通。
 そこでどのようにラストに持っていくかが腕の見せ所だが、多分、この監督は職人的に短く収めたかったのだろう。
 一つ面白い話があった。
 それは、「1ガロンの石油精製に6倍の水が必要だ」ということ。
 フーンと思ったが、世界の水不足を象徴する話だね、これは。
 水が豊富な徳島でも日照りが続くと、ダムの放流の渇水規制が行われるが、飲み水や農業用には伏流水があるので北部の阿讃山系近く以外困るはずがない。
 それなのに水不足になるのは、工業用水に水を使用しているからだ。
 生活が大事か生活を支える工場が大事か?簡単に結論は出ない。
 120:「モスダイアリー」は、女吸血鬼ものの新展開だね。
 女吸血鬼ものでは、シェリダン・レ・ファニュの「吸血鬼カーミラ」が元祖だが、この監督もレ・ファニュと同じアイルランド出身。
 アイルランドの吸血鬼伝説は、ルーマニア・ワラキアの吸血鬼伝説と多分古いところでつながりがあると思う。
 マイクル・クライトンの「北人伝説」でも少し触れられていることだが、中世以前のヨーロッパには、現代では存在自体を否定されている闇の歴史がある。
 たとえば、大っぴらに行われていた人肉食。
 肉食人種が共食いしないなんてはずがないのだが、キリスト教の普及と共にそういう習慣は否定されていったのだろう。
 まあ、それはともかく、女吸血鬼映画では先の「吸血鬼カーミラ」を20世紀に置き換えたロジェ・ヴァディムの「血とバラ」が有名だが、この「モスダイアリー」もアイリッシュ・ヴァンパイアだ。
 それにしても美女揃いで、監督のレズ趣味なんだろうが、確かに目移りがする。
 特に、真っ先に標的にされるサラ・ガドンは、他の映画やドラマで何度か見ているが、いかにもレズが好きそうな線の細い美女。
 彼女の親友である主人公(サラ・ボルジャー:アイルランドの女優)は吸血鬼の日記を発見し、それを読むと100年前の出来事が書かれてあり、二人の境遇がそっくりだったことから、真の標的は最初から自分だったと気づく。
 吸血鬼は自分が辿った道(リスト・カットによる自殺)を彼女にも辿らそうとしていたのだ。
 昔、何んだったか、吸血鬼がある男に「お前に永遠の命を与えてやろう。だが、永遠の命を得る前に、お前は一度死ななければならない」というセリフを言ったところ、その男は「それは困る」と尻込みして逃げ回るドタバタ劇を見たことがあるが、まあ、似たようなことを含みにしているのだろう。
 この映画では、主人公は「呪われたジェシカ」のジェシカと違って、自分の狂気を疑うことは無く、誘惑に負けそうになっても最後まで「ヴァン・ヘルシング」の道を選び吸血鬼と戦うのだが、結局誰一人として彼女の言うことを信じてくれず、恐々と彼女を遠巻きに見るばかり。
 このラストの描写はなかなか秀逸で、正常化バイアスがかかった大衆には理解しがたい覚醒者の孤独と高揚感に満ちたラストであった。
 これは、吸血鬼と吸血鬼ハンターは似たもの同士であり、大衆は吸血鬼よりも吸血鬼ハンターの方を怖がるという構図であり、鬼を追う者であった者があまりにも恐い形相で鬼をやっつけるものだから、ついには大衆に鬼と同一視され、「鬼は外、福は内」と排除される運命となったのと全く同じ。
 吸血鬼物の映画で、吸血鬼を滅ぼした主人公が気が狂った犯罪者扱いされるのは、初めて見た。
 そういう意味で、新展開と思ったのだ。
 では。

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