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2014年9月23日 / misotukuri

映画「エイリアン /ディレクターズ・カット版」の良し悪し度

 最近、孫の動画を撮るのに忙しくて、なかなか本が読めないし、山登りも出来ない一方、毎日のように映画やTVドラマばかり見ている。
 昨日は映画「エイリアン /ディレクターズ・カット」(79年、米、リドリー・スコット監督、シガニー・ウィーバー、トム・スケリット他)を見ながら、DVDに録画した。
 「エイリアン」にも劇場公開版とこのディレクターズ・カット版がある。
 こういう場合、普通は監督が編集権を行使したディレクターズ・カット版の方が、監督の意図に忠実だろうから、より優れていると思うのだが、この映画はさてどうだろうか?
 ほとんど違いに気がつかなかったが、リプリーが救命艇に乗り込む前に繭にされた船長達を見つけるシーンには、ハテ、こんなのあったかな?と思った。
 後で調べると、このシーンはディレクターズ・カット版で追加されたところだった。
 このシーンが劇場版でカットされたのは、何故だろうかと考えると、やっぱり、ノストロモ号爆破までのクライマックスに上り詰めるスピード感の問題だろうと思う。
 これがなかったので、エイリアンに囚われた人間が孵卵繭にされるというのは、「エイリアン2」で初めて出遭うショックだった。
 だが、「エイリアン2」の監督、ジェームズ・キャメロンは、「エイリアン」の原案・脚本作家である原作者ダン・オバノンを通じて、このシーンの存在を知っていたのだ。
 リドリー・スコットは、劇場版でカットされたこのシーンをどうしても復活させたかった。
 それは作品としての完成度感の問題だろうが、私はどちらかと言えば、この場合、劇場公開版の方がいいと思う。
 何故なら、船長達は孵卵繭にされてもまだ生かされているわけで、それを見たリプリーとしては、次に行動すべき選択肢は次の3つくらいあるがと思うが、そのどれを取るにせよ、説明描写が難しい。
 1.取りあえず、全員(あるいは恋愛関係にある船長のみ)助ける努力をする
 2.船長の望みどおりその場で殺してあげる
 3.どうせ数分後に爆破されるからと告げ(あるいは、それも告げずに)、そのままにして立ち去る
ディレクターズ・カット版では、2.を選択したわけだが、その場にマイケル・サンデル教授がいたら、果たしてそれは正義にかなった行動だったのか、議論をふっかけられるだろう。
 現実には、我々は「あれかこれか」と問われても一つしか選択できない世界に生きているわけで、その場にサンデル教授がいたら、「うるさい!」とぶっ倒されるだろう。
 だが、そのサンデル教授というのは、いわばこの映画の観客だ。
 そういうトラブルを避けるには、このシーンはカットして最初からないものとするしかない。
 だから、劇場公開版の方で良かったと思う。
 まあ、議論のあるところだろう。
 では。

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