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2015年1月18日 / misotukuri

「表現の自由」に限度はあるか?

 フランスの風刺漫画専門新聞社「シャルリー・エブド」襲撃テロ以来、「表現の自由」とその限度について議論が深まってきたように思う。
 いったい、「表現の自由」に限度はあるのか?
 いろいろな考え方を探ってみよう。
 1 「表現の自由」に限度はない
 まず、「シャルリー・エブド」の考え方は、「表現の自由」に限度はないという立場だったと思う。
 私は、表現者には当然の考え方だと思う。
 だが、同時にテロリストたちの襲撃もまた当然だと思う。
 それについては、また述べることにして、違う考え方についても考えてみたい。
 2 「表現の自由」は、宗教など対象によっては限度がある 
 これに対し、「表現の自由」は、対象によっては限度があり、それを超えたものについては同様に尊重すべき対立する人権もあるわけだから、国家権力の保証の限りではないので、自主規制すべきだという考え方がある。
 もちろん、人権同士の優先劣後は、憲法の条項順という一般原則はあるにせよ。
 これは、多くの民主主義国家の人々や現ローマ教皇などに代表される意見だろう。
 3 「表現の自由」は存在しない
 また、「表現の自由」という人権概念は一般的には存在せず、宗教や国家が禁止しているもの以外について規制がないというだけであって、自主規制は礼儀の範囲にとどまるという意見もある。
 イスラム諸国、共産主義諸国、強権的国家、未開人などの権威者・権力者の意見だろう。
 だいたい、これらのどれかに入ると思う。
 だが、もう一つ別の考え方もある。
 4 「表現の自由」に限度はないが自己責任で
 何を表現しようと国家権力が禁止したり自主規制を要請することはないと言う点で「表現の自由」に限度はないが、名誉毀損の訴えや秘密保護についての訴えも妨げず、暴力による私的報復も刑事・民事事件として取り扱うという意見だ。
 つまり、「表現の自由」については、民民の事には官は中立で、官民の事では法律にのみ従うべきだという考え方。
 これの場合は、「表現の自由」を主張して生じる結果については、どうなろうと自己責任を覚悟しておかなければならない。
 「シャルリー・エブド」の記者たちも仕事に命を賭けていたんなら、テロで殺されることも覚悟していただろうと思う。
 タブーに挑戦するとはそういうことだ。
 たとえ、侵害されたのが「表現の自由」だろうと、法的救済なんて型どおりのものでしかないのだから。
 私なんかはこの最後の考え方を取る。
 皆さんは、どうだろうか?
 では。

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