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2015年1月23日 / misotukuri

最近本を読んでいて笑ったこと

 最近、滅多にないことだが、本を読んでいて吹き出した。
 あまりにも身につまされて、ゲラゲラ笑ってしまった。
 「ズー・シティ」(ローレン・ビュークス著:ハヤカワ文庫SF)の59ページ、ラストの一行。

 「・・・わたしたちはオーロラにとどまるつもり。で、マンディをシカゴから呼び戻すの。そうすれば孫たちともっと長く過ごせるようになるから。ちょっと待ってね、写真があるわ」
 シェリルが携帯を出して、よだれまみれのしけた顔の赤ん坊のスナップを見せてくれる。
 
 私も孫の世話を1週間に1,2度しているのだが、よだれがねえ・・・
 なんでも歯が生えそろう前の赤ん坊はよだれを飲み込めないものらしく、それでしかたなく、たーらりたらたらよだれを垂れ流し状態になるらしい。
 ウチの孫もようやく、寝返りが出来るようになった頃で、よだれかけをしているのだが、そんなので事足りるものか、顔も手も服も布団もそこら中すぐにべちょべちょ。
 そんなよだれまみれの赤ん坊をかわいいと思えるのは身内だけよと言えるのは、さすがに爺婆というひとつ離れた身だからだろう。
 年賀状に孫が両手を口につっこんでいる写真を貼り付けてきた息子の神経をつかまえて、こんなことオレなら絶対にしないよなと思ったのを繰り返し思い出す。
 それにしてもこの笑いは、何だろう、ブラック・ユーモアか?
 孫が初めておかしくて笑ったときのことを思い出す。
 ある日何の気なしに、「おならプー」と孫に言うと、クスッと笑って一瞬共犯者の顔して 私の顔を見た。
 それは生理的な赤ん坊の笑顔でなく、初めて人間らしい心の動きを赤ん坊に見た思いで面白かったが、その後、何か言う度にキャーキャーヒステリックに笑い出し、すぐに何これ???となった。
 赤ん坊の孫を人工知能と比べながら観察していると、たとえば人見知りにしても人間の認識の仕方というものが位相幾何学的なものであるということがわかる。
 こういう”笑い”というものの源泉も恐らく自己相対化という(外界の)認識の仕方に関係しているのだろうと思う。
 話がSF的にどんどん拡散していくのでここらでやめておこう。
 では。

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