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2015年2月19日 / misotukuri

「人権」教という名の宗教

  朝日新聞もたまにまともな記事を載せることがある。
 仏漫画週刊誌「シャルリー・エブド」襲撃テロ事件の後、フランスを襲った「表現の自由」を守れ集団ヒステリーについて、エマニュエル・トッドが面白いことを言っている。
 どこにでもすぐに冷や水を浴びせかける人間がいるもので、彼らの言が全て正しいわけではないが、違った視点を提供してくれるという意味で貴重な価値がある。
 ネットでは有料会員にならないと読めないので、図書館で2015年2月19日付の朝日新聞13面オピニオン<インタビュー 「分断される世界」仏人類学・歴史学者エマニュエル・トッドさん>をぜひ一読されたい。
 http://www.asahi.com/articles/DA3S11608952.html
 違った視点と言えば、「佐藤優の10分で読む未来 新帝国主義編」(佐藤優)も面白い。
 従軍慰安婦問題に関連して、「宗教化する『人権』」ということを言っている。
 ちょっと引用すると、「・・・『人権』というのは今、世界で最も主要な『宗教』なんです。どうして人権が大事なのか、最終的に説明出来ない。超越的価値なわけですから、すなわち宗教的です。そこにチャレンジするということになると、これは負けますね。・・・」。
 重要なののは、彼はそういう超越的価値の真偽の追求には関心がないことだ。
 確かに外交や政治ではそういうプラグマチックな考え方が必要だが、個人の生き方を問うことでは違うと思う。
 もう少し突き詰めて考える必要がある。
 私は、『人権』概念の発生は、やはり哲学が宗教から独立した頃に遡ると考える。
 宗教とは、ようするにテルトゥリアヌスの至言「不可能故にわれ信ず」とか「不条理なるが故にわれ信ず(credo quia abs)」のとおり、証明できないことを信じるというところにある。
 そういう迷妄から大衆が「さすがにこれはないわな」と唯物論に目覚めたところから、神のお言葉に代わる『人権』という社会規範が必要になった。
 ただし、誰もが一度にというわけにはいかず、目覚めた人から徐々にだが。
 イスラム教はユダヤ教やキリスト教と同じ神を崇める宗教だが、人間観が人間性悪説を徹底しているので、神の教えが絶対なのだ。
 人間は放っておくとすぐに悪いことをし始めるので、コーランで、あれはしてはならない、これはしてはならないと禁止している。
 それ以外のことは、自由と言うより無制約なのだ。
 「表現の自由」という『人権』も、コーランで禁止されていること以外は、結果的に欧米の『人権』概念と重なり合う。
 こういう世界では、宗教から哲学、科学、法律学などが分離独立しなければならない必要性がおきない。
 だから、宗教からそれらが既に分離独立を果たした世界の住人とは、同じ「表現の自由」について議論をしても、微妙なところで噛み合わない。
 もっとも、欧米の『人権』概念には、いろいろな人権が相互に対立したときにどう調整するかについて統一ルールがない。
 法律学的な理解では、憲法に書かれた条文順に優先劣後すると考えるべきだが、どれもが絶対的価値なので、この度の一連の議論を眺めていても、欧米人にはその問題意識がないみたいだ。
  フランス憲法では、人権条項を当然のこととして、削除したみたい(未確認)だが、そうなると「表現の自由」と「信教の自由」とが対立した場合、どちらを優先すべきか問題になろう。
  人権条項を削除したのは、『人権』の神格化と関係があるのかも。
 イスラム教では、コーランに禁止されていないこと以外はどうでもいいことなので、そもそもそういう問題自体が発生しない。
 全てにおいて矛盾が起きない考え方が、より正しくてより良いものなのか、それとも、どんなものにも矛盾というのはあるのであり、どうしてもそれを解決したければ、あらかじめエイヤッとどちらかに決めておけばいいだけだと考える方がより理解が深いのか。
 神も『人権』も宗教なら、どうして人間というのは何でもかんでも宗教にしてしまう存在なのだろう?
 自分たちで決めず、権威を他に求める態度、それが問題だ。
 では。

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