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2015年3月8日 / misotukuri

映画「ビューティフル・ダイ」の予測不能度

  昨夜は、恐い映画を見た。
 「ビューティフル・ダイ」(10年、米、アダム・ウィンガード監督、A・J・ボーエン、エイミー・サイメッツ他)だ。
 恐いはずだ、原題は「A Horrible Way to Die」。
 これが何で、「ビューティフル・ダイ」になるのか?
 原題と全く違うカタカナ題名はやめて欲しい。
 多分、同じ監督の「サプライズ」よりも暗い情念を感じるから、この邦題を考えた人物も、きっとそれに同調するゆがんだ精神の持ち主だったのだろう。
 この映画はあらすじなど絶対に先に読んではいけない。
 ミステリ・ファンならどういうことになるのか、少しのヒントですぐに見当がついてしまって、サプライズがないから。
 カット・バックで細かい事情を感覚的に説明していくテクニックは最近増えてきたような気がする。
 サスペンスの盛り上げ方は、殺人鬼の元カレが自分に迫りつつあるというヒロインの確信が伝わってこないので、イマイチと思う。
  ただ、後で考えると、伏線が見事に張り巡らされているなと感心する。
  最初から、一言も聞き漏らさず、見逃さず、いつでも想起できるようにしながら見ていないと、まあ、ミステリ・ファン以外には無理だろうが、その伏線を見落としてしまう。
 いつもながらのことだが、こういう映画を見ると、日本ではあり得ない展開だが、アメリカでは本当にこんなもなのだろうか?と思ってしまう。
 例えば、恋愛や結婚にしても、相手のバックグラウンドは全く気にしない。
 お互いに、いい人だなと思えば、すぐに関係を持ってしまう。
  それはそれで立派な態度だと思うが、結婚しても愛してるってこと以外に、お互いのことをよくわかっていないのだ。
 夫はシリアル・キラーではないのか?と疑う若くて美しい妻という設定は、欧米のサスペンス・ミステリにはよくあるが、日本ではそういう設定はちょっと現実的でないように思える。
 だが、今の日本でも、人権意識が高くなっており、もしかしたら夫や妻のことをよく知らないで結婚しているのかもしれない。
 都市化が進んで、隣近所にどんな人が住んでいるのかも知らないし、滅多なことがないと関心も起きないというのが増えては来ているとは思うが、自分の夫や妻となるとさすがにまだそこまでは行ってないと思う。
 そもそもサイコパスの存在自体がアメリカでは20人に一人、日本では200人に一人くらいだそうだから、この映画のような例も少なく、たとえ、何も知らなくても実害はほとんどないのだろう。
 いつだったか、自動車運転免許の更新に行って講習を受けた時のことだが、警察官の講師先生が死亡統計の話で、「徳島県では殺人なんて起きませんからね」と言ってのけたのには驚くやら、得心するやらで、フーン、そうかと思ったことがある。
 証人保護プログラムにしても、日本でそれが使えるとすれば、北海道くらいだろう。
 北海道では、お互い過去のことは聞かないようにする伝統があると聞いたことがあるからね。
 だが、逆にどこかに消えた人を探すには、北海道を探すといいかも。
 もっとも、「おい、小池!」は、岡山市にいたのだが・・・
 では。

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