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2015年3月21日 / misotukuri

映画「ダイバージェント」の気にくわない寓意

  昨夜見た映画は、「ダイバージェント」(14年、米、ニール・バーガー監督、シェイリーン・ウッドリー、テオ・ジェームズ、ケイト・ウィンスレット他)。
 なかなか面白かった。
 「ハンガー・ゲーム」より上だね。これは。
 最近、面白い映画をいくつも見ているのだが、なかなか考えがまとまらなくてね。
 その理由はわかっている。
 考えているテーマが大きすぎるのだ。
 どんなテーマかというと、「悪の起源」というものだ。
 大きすぎるだろう?
 映画も冷戦終結を境にして、「悪」の扱いが、より内向きになっているね。
 現実に残虐極まりないことを宗教の名の下に行う今日の「悪の帝国」イスラム国に続々と参加する若者たちを、「悪」に魅入られた精神的におかしい者たちと決めつけられないのは何故なのか?
 それは、多分、われわれの「内なる悪」とか「悪の内在性」を意識せざるを得ないからなのだ。
 ミステリやホラーなどのエンターテインメント映画においても、それは如実に現れていて、動機が嫉妬や金目当ての殺人などという単純な描き方は少なくなった。
 昔はシリアスな映画のみが扱っていたテーマを今はエンターテインメントでも扱っている。
 また、昔はアダルトが扱っていたテーマを今はヤング・アダルトが扱っているのだ。
 この近未来SF映画「ダイバージェント」も同じ。
 舞台は、文明滅亡後の近未来のシカゴ。
 人々は、成人すると全員が、政治を司る「無欲」、農業を司る「平和」、正直を司る「高潔」、知識を司る「博学」、警察を司る「勇敢」の5つの派閥のいずれかに振り分けられて生活をしていた。
 主人公のベアトリスは、「無欲」派閥出身の少女だったが、成人適性検査テストで、そのいずれにも属さない「異端者」(ダイバージェント)と判定される。
 ダイバージェントは、社会の安定を崩す存在として憎まれ、見つかり次第、排除される運命にあったのだが、検査官の好意で出身の「無欲」派閥に行きなさいと勧められる。
 しかし、彼女が選んだのは殊の外ダイバージェントを目の敵にしている「勇敢」派閥だった。
 彼女は自分の判定結果が彼らに見つかるのを恐れながら、同期の者たちと共に正式入会の試験に臨む。
 その試験は3段階あり、落伍者は社会の寄生虫的存在である「無派閥」に追放されることになっていた。
 ある日、彼女は”フォー”という謎めいた指導教官に出会う。
 彼女は”フォー”の助けで何度か落後しそうになる試験をクリアしていく内に、完璧に見えた社会に潜む「邪悪」が牙をむき始めるのを目の当たりにすることになる。
 この映画は、ディストピアもので、ようするに寓話なのだ。
 その寓意を如何にして解くか?
 この映画、ベストセラー小説を元にしながら、脚本はさんざんの評価らしい。
 何でも、原作のメッセージ性が生かされていないとか。
 原作のメッセージがいかなるものか、まだ読んでいないので何とも言えないが、この映画のメッセージは私にはよくわかるような気がする。
 人類が相互に争って、いったん文明が滅亡してしまったあと、残された人々が過去の過ちを反省し、理想的な社会を築いた。
 面白いのは、そこで政治を司るのは、「無欲」派閥だということだ。
 おそらく、「平和」や「高潔」や「博学」や「勇敢」には、他の価値観を認めない狭量な心があり、それが文明破滅を招いた戦争の原因だと考えた。
  「平和」=農民党、「高潔」=正義教党、「博学」=知識人党、「勇敢」=武人党と置き換えて、彼らのどれかが一党独裁をすると考えれば、そのあたりがよくわかるのでは。
  「博学」の悪役が主人公らに「言うとおりにしないと殺すぞ」と脅されても、「主義に殉ずるのは本望よ」と言って脅しに屈しないのは、立派な態度ではあるが、間違いを指摘されても頑として肯んじない偏狭な態度とも言える。
 他の派閥でも、その点はみな同じで、要するに彼らの本質は原理主義者ということだ。
 とすれば、やはり政治は、そういう自己中心的な人々よりも、心から他人に奉仕できる「無欲」な人たちに任せるのが一番いいということになったのだろう。
 そして、多分、そういう社会システムの設計をしたのは、「博学」に属する人々だろう。
 「博学」がシステムを設計し、維持管理するが、権力は「無欲」に任せる。
 ようするに、「博学」=官僚(テクノクラート)ということだ。
 だが、こういう分業で成り立っている理想社会にも必ずはみ出し者がいて、多くはアンタッチャブル(不可蝕賤民)たる「無派閥」遊民(ルンペンプロレタリアート)になるのだが、中にはそういう理想社会思想を根底から否定する優秀な「異端者」(ダイバージェント)も少数ながら出てくる。
 そういう「異端者」(ダイバージェント)を、社会の不安定要因と捉えるか、進歩促進的要因と捉えるか?
 SFでは一貫して、後者として捉え、彼らをヒーロー・ヒロインとする物語を紡いできた。
 この映画もそこは同じ立場に立っている。
 そのあたりをヤング・アダルトから脱してないと批判されているのだろう。
 だが、それは寓意の本質的なことではない。
  寓話がおとぎ話の体裁をもって語られるのと同様に、ヤング・アダルトで語られたとして、どこに不都合があろうか?
 「博学」は、互いに自己主張する各派閥を牽制する意味であえて「無欲」に政治権力を任せたのだという建国の精神を忘れ、現実にこのシステムを維持運営しているのは自分たちであるという自負が、自分たちこそが真の支配者であり、政治権力を握るべきだと考えるようになる。
  「優れた者が劣った者を支配してどこが悪い」という彼らの本音。
 この映画の寓意は、きっと「博学」=インテリの陥りやすい「傲慢」からくる堕落ということだな。
 そこに「悪」が生まれるのだ。
 彼らは「出来ること」と「していいこと」とは違うということがわかっていない。
 彼らは、共産(社会)主義で社会を良くしようとして失敗したことを全然学んでいないのだ。
 この映画が彼らにウケなかったのは、「博学」な彼ら自身が批判されているからだろう。
 自虐ネタが通じなかったということかな。

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