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2015年6月10日 / misotukuri

酒鬼薔薇聖斗(加害者)の手記出版は許されないのか?

酒鬼薔薇聖斗(32)が「絶歌 神戸連続児童殺傷事件 元少年A 1997年6月28日。僕は、僕でなくなった。」(太田出版)という手記を出版した。
この事件関係では、加害者側母の「『少年A』この子を生んで・・・父と母悔恨の手記」(文藝春秋)、被害者側父の「淳Jun」(土師守;新潮社)などがある。
そして、今回、加害者本人の手記が出版された。
これに対し、被害者土師淳君の父親の守さんが、「今すぐに、出版を中止し、本を回収してほしい」というコメントを出した。
被害者の親の気持ちとしては当然だが、犯罪者が手記を出版することは、法的にあるいは倫理的に、許されないことなのか?
「内容次第」とか、「内容を問わず」とか、いろいろ考え方はあるだろう。
世の中には、死刑囚が自分の犯した犯罪についての手記や小説を書いて、それがベストセラーになったり、映画化されて大ヒットすることもあるわけだが、それって禁止すべきことだろうか?
犯罪者が手記を書くことは、誰も問題にしないだろう。
しかし、それを出版するとなると、手記を書くこととは意味が全く違ってくるのではないか?
太田出版の岡聡社長は、「少年犯罪の当事者が当時、どう考えていたかを社会は知るべきだ」と言っている。
「社会的効用論」だな。
そもそも、その手記に被害者が描かれているとしても、それは加害者の心の中の被害者像(記号)であり、現実の被害者そのものではないのだ。
だが、たとえそういうことが理解出来る人でも、しばしばそれらは混同されるものだ。
そして、それはこの元少年Aにかぎっては、あながち間違いではない。
なぜなら、元少年Aの写真を撮るように全てを記憶できるという撮像記憶能力が失われていない限り、彼はいつでも好きなときにその記号としての記憶を再現できるからだ。
たとえば、殺害の瞬間の性的悦びまでも含めて再現できるはずで、記憶のクオリアのリアリティが普通の人間のレベルとは全く違うのだ。
だから、彼が手記で何を言おうと、そして、そこにあなたの期待するようなことが書かれていたとしても、それは多分真実ではないと考えるべきだ。
これはあくまで元少年Aが書いた酒鬼薔薇聖斗物語というフィクションなのだ。
だから、手記には真実と言うより意図がある。
問題は、その意図を被害者遺族が許せるかどうかだ。
だが、元少年Aの償いは量刑という観点からは、もうとっくに終わっているのであり、後は彼の内心がどうあろうと、人間性理解の一助にするしかないことなのだと思う。
もちろん、出版によって新たに犯罪を形成するということになるのであれば、それはまた別の問題なのだが。
では。

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