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2015年6月23日 / misotukuri

映画「バートン・フィンク」の観客フィンク度

映画「バートン・フィンク」(91年、米、ジョエル・コーエン監督、ジョン・タトゥーロ、ジョン・グッドマン他)を見た。
 1941年、NYの小市民の生活を描き評判になった新進劇作家がハリウッドに引き抜かれ、いきなり畑違いのレスリング映画の脚本を書けと言われるのだが、締め切りまでにどうしても書けない。
 安ホテルの蒸し暑い部屋の中で最初の書き出しに苦労していると、隣の部屋から男の何とも耳障りな一人笑い声が聞こえてきて・・・
 この映画、まるでハリウッドの内幕ものみたいで、何人か、ハハン、これはモデルがいるな、誰だろうと思ってしまったが、まず、W・P・メイヒューは、ウィリアム・フォークナーだろうと見当はつく。
 しかし、フォークナーの代作疑惑って、アメリカでは誰もが知ってることなのだろうか?
 バートン・フィンク自身のモデルは誰か?アーサー・ミラーか?
 まあ、それはいいとして、この映画に戻ると、コーエン兄弟の最高傑作とか言われているようだが、それは疑問だとしてもこの作品が面白いのは間違いない。
 私はコーエン兄弟の他の映画にも見られるように、現実と幻想は区別できないという基本認識に立った描き方に特に感心する。
 つまり、映画の中の登場人物には、まるで夢の中に生きているような変わった人物が多いのだが、われわれの感覚的現実とは他人から見れば幻想みたいなものだ。
 彼らが変なんじゃなくて、みんなが変なのだ。
 それぞれがそれぞれの現実を生きている。あるいは、幻想を。
 誰の現実が実在する現実かということは、実際、誰にも確かめようがないことなのだ。
 この映画の保険のセールスマンをしているという隣の部屋のデブの巨漢チャーリーは、やはり明らかに変人だが、問題を抱えている孤独な男で、同じく孤独で女づきあいもない変人の主人公バートン・フィンクに類は友を呼ぶ的友情を覚える。
 バートン・フィンクの視点でチャーリーの幻想を描きながら、実のところそれはフィンク自身が現実と思っているフィンクの幻想なのだ。
 浜辺で失意にうちひしがれて座り込んでいたフィンクがホテルの壁に掛かっていた写真そっくりの水着の美女に出会うラスト・シーンもまた同じ。
 端の方でカモメかウミウかよくわからない鳥が海に落ちるが、共に何を象徴しているのか、思わせぶりな表現だ。
 あるいは、これはフィンク自身が創作のネタ的に現実を見ている幻想なのか?
 つまり、実際にそういう女性が浜辺を水着で一人歩いてきたかどうかはともかく、それが現実だったら面白いなと思って現実を再構成した、つまり空想したということだが、それを更にフィンクの現実として描いてきた幻想そのものの映画のラストシーンに使うという。
 実際は、フィンクはまだホテルの部屋の中で、脚本が書けずにいるだけなのかもしれない。
 だが、それは意識的に説明が省略されていて、観客やこの映画の中の他者にはわかりようがないことなのだ。
 こういう多重構造的表現が意識的になされたものかどうかはわからない。
 わからないけど、少なくとも直線的単純に理解できる映画でないのは確かだ。
 だって、考えても見たまえ、このホテルは、映画の中の現実には、本当は火事になってるのではないだろう?
 だからさあ、これはどこかの時点からフィンクの幻想(創作)になっているのか、または、フィンクの現実に幻想(創作)が入り交じっているんだよ。
 そういう風に理解したんだけどね。
 では。

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