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2015年7月6日 / misotukuri

映画「フットノート」-どちらがよいのか?

 映画「フットノート」(11年、イスラエル、ヨセフ・シダー監督、シュロモ・バル=アバ、リオル・アシュケナージ他)を見た。
 http://www.wowow.co.jp/pg_info/detail/105334/index.php?m=01
 ジャンルはコメディ?
 人生がコメディというのなら、あるいはそうかもしれない。
 ストーリー的な面白さもさることながら、文献学というよく知らない学問の世界での学会批判が、どこの世界にも通じる一般的なことのように思えて面白かった。
 同じ文献学の世界で、才能溢れ次々に著作を発表し、アカデミー会員に選ばれた息子と、コツコツ研究を続け当代随一の博識だが、これと言った著作もなく、老境が来ても未だアカデミー会員になれずにいる父。
 ある日、今年のイスラエル賞受賞の知らせが父のもとに届く。
 だがそれは、父ではなく、実は息子の方に届けられるべきものだった・・・
 うーん、わからないでもないが、私は息子をこの父親のような目では見たことがない。
 私は息子には自分の越えられなかった障壁を越えてはるか先まで進んで欲しいとは思うので、鳶が鷹を生んだと揶揄されてもうれしく思いこそすれ、追い越されたことでの嫉妬や屈辱を感じることはないだろう。
 タルムードに言うように「息子と弟子は嫉妬の対象外」だ。
 ただ、この父親の「陶片の研究者」の比喩によるアカデミズム批判は面白い。
 「われわれは陶片の研究者だ。一人は隅々まで洗浄し、目録にまとめる。科学的に正確な計測をして時代と作者を特定しようとする。うまくいけば、後世に残る学術的価値を生み出すだろう。もう一人は、陶片をちらっとみて、だいたい同じ色だと思えばすぐに陶器本体を作る。時代や組み合わせが違ってもどうでもいい。器だけが大事だ。きれいな器かもしれないが、学術的価値のないからっぽの器だ。幻想だ。基礎のない塔だ。」
 選考委員長との取引で息子が選考理由の草稿を書くことになるが、その過程で息子は父が学会から否定的に見られていることの理由がわかってくる。
 受賞に値するような創造性や独自性についての賛辞の言葉がどうしても書けないのだ。
 父の研究は、本文の脚注(フットノート)のように、博識ではあるが、それ自体に創造性や独自性はなく、何のメッセージ性もない無価値なものだからだ。
 だが、それはまさに父がそのようなものこそは空疎な物語に過ぎないと否定するものだった。
 このあたりは、同じアカデミズムでも、イスラエルと日本では反対のように思える。
 すなわち、イスラエルのアカデミズムが息子の立場なら、日本のそれは父の立場としか思えない。
 日本の創造性や独自性に溢れる研究者は、ほとんどみんな海外へ出ていく現状を見れば、論証せずともおわかりだろう。
 どちらがよいのだろうか? よくわからない。
 たとえば、歴史学で考えてみよう。
 現在の目で見て「歴史物語」を作る息子のような取り組み方がよいのか、あくまでその時代の事実を考証し何があったのかを特定するに止めるのがよいのか。
 たとえば、従軍慰安婦について研究するとしたら、どちらがよいのか?
 あえて、どちらが正しいのだろうかとは言わない。
 学術的価値のあるのはどちらだろうか?
 では。

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