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2015年7月11日 / misotukuri

一升餅(いっしょうもち)考

もうすぐ1歳のお誕生日を迎える孫の父親、つまり私の息子から「一升餅しようと思うんだけど」と相談があったとき、「それって、何?」と聞き返した。
「一升の餅を背負わせて、一生食うのに困らないようにっていうのと掛けてるんだけど」と息子。
「まだ歩きも出来ん子にそんなことしたら背骨が折れてしまうよ」と私。
「そんなん、格好だけよ。」とそれを聞いてた妻が話に割り込んできて、「県南の方では、そういう風習があるって聞いたけど、ウチは誰もそんなことしてないわ」と言った。
「何か、全国的な風習って聞いたけど?」と息子。
私はそういう冠婚葬祭の風習にはまったく疎い方なので、「一升」と「一生」を掛けたという話を聞いて、即座に「馬鹿馬鹿しい。そんな語呂合わせみたいな事ヤメてしまえ」と言ってしまった。
「そんなこと言われん。親がわが子にしてやりたいと思ってるんやから、あんたが言うことやないわ。お前(息子)がしてやりたいなら、したらどう?」と妻。
まさに正論。
だが、勢いのついてる私は止まらない。
「そらそうや。けど、なんぼ、言霊の幸う国や言うても、そんなんにとらわれたらアカンのとちゃうか?しょうもない」と言ってしまった。
ここで、ホントは、「日本人は、そんなアホらしい語呂合わせみたいなことやってるから、戦争に負けるんや」と言いたかった。
しかし、そんな話しても、飛躍しすぎていて、理解できないだろうと思ったので、口に出すのは止めた。
ちょうどルイス・キャロルの「スナーク狩り」を読んでいるところなので、その中に出てくる「同じことを三度言ったら現実になる」という言葉がつい頭に浮かんだのだ。
「ほな、ヤメるわ」と言い残して、息子は自宅に帰って行った。
後で、「何で、そんなこと言うんよ。あの子の気持ちがわからんの?」と妻に叱られた。
それでも言い突っ張らざるを得ない私は、「あのな、どうせ、どっかのお菓子屋が売り上げ増を狙って始めた偽の風習じゃないの?」と続ける。
「オレはなあ、親が初めてのお誕生日を迎えるわが子を思う気持ちというのは美しいと思うよ。けどな、そんな弱味につけ込むような商売に無批判にホイホイ乗せられるのは我慢できんのよ」と。
「けど、お宮参りも食い初めもしたでしょ。あれはじゃあいったい何なのよ」と妻。
「あれは・・・・その、1回だけやから」と言い返したものの自分でも説得力まるでなし。
「これも1回だけじゃない」と言う妻に反論できないので矛先を変えることにした。
「お前の思っている世間の風習というのは、そんなに古いもんじゃないというのが結構あるもんや。一升餅がどんな風習か、ちょっと調べとくわ」と話を打ち切った。
数日して、打ち切った話を思い出したので、ネットで調べてみたら、あるわあるわ。
商売人のサイトはパスして、Wikipediaを見てみた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%8D%87%E9%A4%85
およそくだらないことが書いてある。
しかも、上の方に、「この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。」とある。
元々、民間伝承などを集めた民俗学にそんなものがあるのは少ないと思うが、丸い鏡餅が何の象徴かは、名著「蛇」(吉野裕子)に詳しい。
先のWikipediaの記事の中の「初誕生祝い」の項におよそ馬鹿馬鹿しい説明がある。
少し長いが、コピペで引用してみよう。

初誕生祝い[編集]
子供の満一歳のお祝いのときに用いられる[1]。「一升」と「一生」を掛けて一生食べ物に困らないようにという意味が込められている[1]。また、丸いことから「一生丸く長生き出来るように」と願いを込めたものともいう。この意味や祝う行事は地域や各家庭によって様々だが、親から子へ受け継がれるものであるため、各家庭の特色がみられる祝いでもある。呼び名も様々で、「一生餅」「誕生餅」「一歳餅」「力餅」とも呼ばれる。

餅負い[編集]
この一升餅を「背負餅(しょいもち、せおいもち)」と呼び、寿の文字や子供の名前を書いた一升餅を1歳の子供に風呂敷や餅袋等で背負わせ、子供が背負い立てない姿、転ぶ姿を将来への夢や希望の願いを込めて見守る行事がある。一生の重みを感じさせると言う意味合いで、立って歩いてしまう子供の場合、わざと転ばせることもある。地域や家庭により「立ち餅」「立ったら餅」「転ばせ餅」「転ばし餅」「転び餅」とも呼ばれる。

餅踏み[編集]
この一升餅を「踏み餅」と呼び、一升餅を大地にたとえ、草鞋を履かせ、「大地にしっかり足をつけ歩んで行けるように」と願いを込め、子供を一升餅の上に立たせる行事がある。

以上の中で目を引いたのは、太字にした部分だ。
1歳になったばかりの赤子が、一升の餅を背負って、立って歩けるだろうか?ということと、もしそんなことが出来るスーパー・ベイビーがいたとして、何故ほめもせず逆に転ばせたりするのか?
怪我したらどうするのか?
この記事は、ダメだ。
そこで、こういうときに、引っ張り出してくる本を見てみることにした。
「民俗学事典」(柳田國男監修 財団法人民俗学研究所 昭和26年1月31日 初版発行 昭和42年11月10日33版発行)だ。
これの365頁に「誕生祝」というのがある。
これも長いが、ちょっと引用してみよう。(旧字体は新字体に変え、段落をつけるなどしてある)

「常民の伝承では、誕生日の祝は、ほとんど生後第一年の初誕生に限られていた。これをムカハリ月・ムカヒドキなどと呼ぶところが多い。
この日の餅を力餅・タックリ餅・立餅・ブッツハリ餅などと称する。生児が誕生祝以前に歩くのを嫌う気持ちがあり、成長してから家を遠く離れて暮らすようになるなどといい、早く歩きだした子にはこの日の餅を背負わせてわざと倒したり、箒(ほうき)の先で突き倒したりするところもある。また餅で体をたたき、あるいはその餅を投げつけなどして、それを食べさせるところもある。九州方面では一般にその餅を平たくのして、その上を児に踏ませる。それらの餅は親戚近親に分けて贈るのを常としている。
この日に箕(み)の中に立たせる風習は非常に弘い。長野県などではこのときに「しいなは舞い出ろ、実は残れ」という類いの唱えごとをする。
男児には農具・そろばん・筆硯(ふですずり)、女児には物指(ものさし)・針などを並べて取らせ、将来何になるかを占う「こともこの日に弘くおこなわれている。 <参>大藤ゆき「児やらひ」昭19 」

以上だが、何かWikipediaとは、似て非なると言うか、まるで逆だろう?
この「民俗学事典」の記事は、多分、昭和19年発表の大藤ゆき「児やらひ」からの引用がほとんどだろう。
「児やらい-産育の民俗(1968年)」(民俗民芸双書26)は、アマゾンでも手に入るが、図書館にもあるだろうから、一度読んでみようと思う。(この記事を書いた時点では未読)
その上で、問題は、「児やらひ」の「やらひ」だ。
「やらひ」というのは、これも下記のコピペだが、「子を『やらう』ことから来た言葉であるが、『やらう』とは、動詞 『やる(遣)』の未然形に、反復・継続を表す助動詞『ふ』が付いたもので、追い出す、しりぞける、追い払うといった意味がある。」のだそうだ。
このことについては、下記を参照されたい。
http://bbs.jinruisi.net/blog/2007/09/261.html

また、上記の長野県の「しいなは舞い出ろ、実は残れ」という不吉な呪文の「しいな(粃/秕」とは、要するに、殻ばかりで実が入っていないもみのこと。
だから、初誕生の前に立って歩ける赤子は、実のないもみの「しいな」なのだ。
実の入ったもみ(籾)で良いものは、翌年の種になり、地にまかれると苗ができ花が咲き実を結ぶ、そして、再び選別され良いものは翌年の種として残される。
初誕生の前に立って歩ける赤子は早熟を嫌う価値観の下で、「しいな」と呼ばれ「やられる」(追放され、排除される)のだ。
だから、初誕生の前に立って歩ける赤子はわざわざ倒されて、もっとゆっくり育てよと戒めるのだ。
だが、そんなもの初誕生の赤子に解るわけがない。
これは、とぐろを巻いた蛇の象徴である鏡餅を使うことといい、多分、農家の風習だな。
これが、戦後民主主義教育文化の下で、崩壊していった村落共同体の価値観が忘れられ、商業主義の売らんかなの宣伝に乗った空疎な愛の儀式に変質して行ったのではないだろうか。

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