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2015年8月9日 / misotukuri

映画「コレリ大尉のマンドリン」に「フューリー」はあるか?

昨日は、戦争映画2本立てで見た。
最近第二次世界大戦物が続くが、戦後70周年ということで、節目の時にあたってもう一度戦争をじっくり考えてみようということか。
 1.「コレリ大尉のマンドリン」(01年、米・英、ジョン・マッデン監督、ニコラス・ケイジ、ペネロペ・クルス他)
 2.「フューリー」(13年、米、デヴィッド・エアー監督、ブラッド・ピット、シャイア・ラブーフ他)
「コレリ大尉のマンドリン」は戦時下の恋愛物で反戦映画。
「フューリー」は戦争アクション物の好戦映画。
と、まあ大ざっぱに一括りしてもほぼ間違いはないだろうが、汲み取るものが何であるかによって、得るものにも違いが出てくるだろう。
だが、最近の戦争映画は、明確な敵を想定しにくくなったこともあり、反戦映画とか好戦映画とか簡単に線引きできなくなっている。
「コレリ大尉のマンドリン」にしても、よくある反戦映画につきものの、「戦争さえなければよかったのにね」などと言えるだろうか?
そもそも、戦争が起きなければ出会うはずがなかった二人だ。
戦争は若者に凝縮された濃密な時間をもたらす。
戦争が二人を離れがたいものにした。
戦争こそが二人の美しい恋愛を作ったと言える。
それなのに、その戦争を否定するのか?
「フューリー」にしても、無造作にジュネーブ条約違反のような殺人が行われていて、いかにも好戦映画みたいだが、果たしてそうだろうか?
だが、少なくとも、反戦映画ではない。
なぜなら、戦場にいる兵隊が、殺戮の戦争を現実として受け入れているからだ。
「戦争を二度と起こしてはいけません」と言ったって、それは願望に過ぎない。
戦争は、どちらかに戦争をしてでも今の現状を変更したいと考える者がいれば、どのみち起きざるを得ないのだ。
逆に、現状を絶対変えたくなければ、いざという時には戦争も辞さずという強い態度を示すことによって初めて自分に都合のいい平和が保たれる。
抑止論の基礎だ。
だが、いったん戦争が起きてしまえば、どちらにしても、まず勝たなければ意味がない。
平時のあなたの主義や信条、信仰の問題はそれに何の関係もない。
いつまでもそういうものにしがみついて、戦闘を放棄するのは現実から目を背けることに等しい。
人を殺すくらいなら、自分が死んだ方がマシだと考える人もいる。
ある研修をしていて、そういう人にお目にかかり、私は彼女の優しさに心打たれた。
だが、私は守るべきものがもう一方の天秤に架かっていれば、どうだろう?と考える。
急に宗旨替えしたって、間に合わないのが、防災と戦争だ。
しかし、そういうことを幾ら深く理解して、戦争に勝つための準備万端整えていても、個々の戦闘で生き残れるかどうかわからないのが戦争だ。
戦地に到着したその日に戦死する運の悪い人間だっている。
ゲームの開始直後にゲーム・オーバーとなるようなものだが、長いこと苦しまずに死ねて良かったと言う人もいれば、自分を見つめ直すチャンスもなく死んでしまったのは可哀想と思う人もいる。
戦争で生き残れるかどうかは確率的なものに近いと思うが、コレリ大尉のように戦争の最中であっても人生を楽しんだり、「フューリー」の戦車長のコリア軍曹のように最後まで任務を果たそうと努力するか、いずれにしても自分が納得できる生き方をするのが大事だ。
戦争は国家の、ひいては国民一般の欲望の衝突であり、個々の人間にとっては残酷なものだが、ある意味、命が最も明るく輝くための触媒のような役目を果たしてくれることもある。
だが、より充実した生き方をするために、戦争に期待するのはやめた方がイイ。
あるツアーでヨーロッパを巡った時のことだ。
パリに着いたときバスの中でガイドがパリの女性に気をつけろという話をした。
「だいたい、日本でモテないのに、パリでモテるワケないだろ」だって。
笑ったが、そのとおりだ。
戦時だろうと平時だろうと、今いるところで、如何に生きるか(モテるか)を考えるべきだということだ。
では。

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