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2015年9月20日 / misotukuri

想定外のことが起きるのが戦争だ

安保関連法案の審議の過程で、政府側が色々な想定を挙げて説明するたびにそういう想定は起きえないとか言って反対派に批判されたが、どんな想定をしたって、9.11同時多発テロ事件以降イスラム国創設に至ったようなことは、ほとんど誰も想定できなかっただろう。
ブッシュJr.米大統領が「これは戦争だ」と言った時に知識人は皆「あの馬鹿が」とせせら笑った。
ところが、アフガニスタン戦争、イラク戦争の後、イスラム国が創設されるに至って、「これまで見たこともないような戦争」が起きているなどと戦史に詳しい専門家までが言い出す始末だ。
3.11で福島原発事故が起きたとき、原子力発電の専門家は、「想定外の事態が起きた」と言って逃げようとした。
だがもちろん、9.11テロが実は想定外ではなかったのと同様、3.11福島原発事故も想定外ではなかった。
正確に言うと、想定外ではなかったが、想定して対策を立てなければならないほどの発生の確率ではないと思ったのだ。
われわれは蓋然性の世界の住人だ、そんなことまで想定してビビっていたら、何も出来なくなる。
だが、そういう想定外のことは、起きるときは起きるのだ。
何事もある程度は想定してあらかじめ準備しておくのが、優秀な人間のすることだ。
だが、想定外のことも起きえるということだけは認識して、少なくとも、そんな想定は起こり得ないなどとは決して言わないことだ。
歴史を見ると、文明の存亡を賭けたような大きな岐路となった戦闘では、敗者は自分たちの常識では想定外の勝者の行動によって取り返しのつかない敗北を喫していることが多い。
つまり、敵はこちらが考えるようには考えないものなのだ。
自分たちの常識外のことをしかけてくるかもしれないと想像できるかどうかが、存亡の分かれ目となる。
夜襲はしないとか、雨の日は戦わないとか、戦争する前に何かの儀礼的行為をするとか、女子供は戦闘しないとか、そんなことは敵味方が戦争文化を共有していないと何の意味もない。
異民族、異文化との戦争の体験が日本人にはあまりにも少ない。
ましてや戦争概念が変わってきている時に憲法解釈や個別的自衛権、集団的自衛権などの定義を巡って古くさい神学論争してもしかたがない。
軍事専門家でも想定外のことが起きるのが戦争だ。
それを素人が想定をあげつらってもしかたがないだろう。
決められない日本とか言われて馬鹿にされたり自ら言って自虐に浸っていたところ、本当に決める人間が出てくると独裁だとか民主主義の否定だとか言い出す。
自ら決めて、実行し、その結果に自ら責任を取って、より良いものに変えていくということが、どうして出来ないのか?
失敗を恐れていては、成功もつかめない。
自分で決められないから空気で流れていくというのは日本人の本質でも何でもない。
日本人にそういう人間が多いと言うだけだ。
議論をするのは大事だが、歩み寄る気がない議論は議論自体に意味はなく、時間の無駄だ。
国会議員の多数が変えたいというのなら、変えてみたらいいではないか。
変えてみて、具合が悪ければ、また変える。
具合がが良ければ、悪くなるまで、続けたらいい。
憲法だって、同じこと。
自分たちで決めてないから、変えられないのだということに、気がつかなければいけない。
ドイツが出来て日本が出来ないというのは、自分たちで決めようという気がないからだ。
自分で決めたことならその責任も当然自分で負わなければいけない。
押しつけられたことならその責任は自分たちにはないよな。
だけど、それが居心地良かった時代は終わったのだ。
日本人も普通の大人にならなければ。

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