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2015年10月2日 / misotukuri

映画「ゴーン・ガール」の完全にイッテル度

 先日見た映画はこれで今年150本目の「ゴーン・ガール」(14年、デヴィッド・フィンチャー監督、ベン・アフレック、ロザムンド・パイク他)。
 スゴイ映画だ。
 原作は、2013年度NWA賞(エドガー賞)にノミネートされた「ゴーン・ガール」(ギリアン・フリン)。
 ゴーン・ガールと言っても、カルロス・ゴーンの取り巻き女とは関係ない。
 まずは、あらすじをちょこっとネタバレしない程度にコピペで済ますと、
 「5回目の結婚記念日、ニックは家に戻ってくると、妻のエイミーが失踪していることに気づいた。
 すぐさま警察に届けるが、”アメイジング・エイミー”という本の著者で、ちょっとした有名人だった彼女の失踪はメディアの注目を集めるところとなる。
 報道が次第に過熱していく中、やがて、彼の不可解な行動や完璧なまでに幸せな結婚生活についての嘘の暴露によって、エイミーは失踪したのではなく、実はニックが殺したのではないか?と警察までもが疑い始める。」
 ニックが、いかにも正直そうな態度で警察官と対応する中で、次第にハンサムだけどホントはイヤな奴だとわかってくる。
 観客は、ニックの弁解を聞いている内、いやそれでも彼は妻を殺していないと思ったり、実はエイミーは生きていてDV夫から逃げるため偽装殺人を仕組んだのでは?とか思ったりしながら、ドラマを見ていると、思わぬ展開が待ち受けていた。
 まるで、ロス疑惑。
 マスコミを騒がせる犯罪の犯人さがしを趣味にしているネット迷探偵Jinchanもこれには真っ青の結末。
なるほど、 世の中は、見かけどおりだったり、見かけどおりでなかったり、ということの教訓を与えてくれる作品だ。
 例えば、犯罪者のタイプにも色々あるんだよというのが、この映画には描かれている。
 ひとつは、ニックが疑われたようなサイコパスとかソシオパス。
 これは、反社会的人格障害からくる犯罪者で、支配的で共感能力に欠けているところがあって、緻密な計画性と信じられない衝動性が同居していて、利己的で平気で嘘をつき、他人のせいにするものだから、近しくなればなるほどその人間が嫌いになるタイプ。
 彼らは、どんな犯罪を犯しても、決して反省することはない根っからの嘘つきだ。
 もう一つは、社会の底辺で育ったケチな犯罪者で、弱肉強食だなどと強がっていても、結局は、体験からくる怨恨感情が強いだけの普通の人間。
 ようするに、彼らは、生育環境が生んだ犯罪者で、犯罪を犯しても、取り扱われ方次第では、反省し、悔い改めることができる。
 どちらが危険かと言えば、その人が住んでいる社会環境による。
 日本のような安全な社会では、環境が作った犯罪者も生来的なサイコパス犯罪者も少ないので、危険の意味合いが違う。
 アメリカではというより、日本以外の国では、多分、両方のタイプが多く、被害者を含めて、色々な組み合わせで、入り乱れているのだろう。
 また、この映画では、マスコミの事件報道の節操のなさというか、視聴率が取れればいいといういい加減さも描かれている。
 そして、司法もそれに左右されるのが大衆民主主義社会なのだ。
 こういうマスコミや司法の描き方もありきたりだが、この映画で面白いのは、人権派弁護士が活躍する映画と違って、「そもそも、こいつらには敵わないよ」というあきらめが見受けられることだ。
 確かに、「事実」の解釈である「真実」というものがどうだろうと、それを暴くのがいいのか悪いのか、難しいところだ。
 「真実」と言えば、主人公には双子の妹がおり、マスコミは二人の関係について近親相姦的なほのめかしをするのだが、これについてもあのラストをどう考えるか?
 「真実」は、いったい、どっちなのだろう?
 私にはよくわからなかった。
 原作は読んでいないのだが、これを読めばもっと詳しいことがわかるかもね。
 では。

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