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2015年10月6日 / misotukuri

映画「戦場でワルツを」の記録でなく記憶遺産度

 映画「コングレス未来会議」は風邪を引いたり痛風の発作が出たりして見られなかったが、同じ監督の前作「戦場でワルツを」(08年、イスラエル、アリ・フォルマン監督、ジェレミー・レナー、オーリ・シヴァン他)は昨日見ることができた。
 これは最初からほとんど最後までアニメなのだが、ラストになって実写の報道ニュースと写真が出てくる。
 英語の原題は、「Waltz with Bashir」で、Bashirとは、レバノンのキリスト教右派(ファランヘ党)のカリスマ指導者バシール・ジェマイエル(Bashir Gemayel)のことだ。
 1982年、レバノン国会で大統領に選出されたバシールがファランヘ党本部で演説中、爆弾テロにより、バシールのほか26人の党員が爆殺された。
 党の民兵はその報復としてベイルートに暮らすパレスチナ難民を襲撃し、「サブラー・シャティーラ虐殺事件」を引き起こした。
 この映画は、その事件当時の失われた記憶の過去を求める話だ。
これを実写でなくアニメで撮ったというのは、イスラエルの監督が映画を実際の現地ロケで撮るというのは政治的に多分ちょっと難しかったからだろう。
 また、人の記憶への不信をも描いていることから、99%アニメで1%実写・写真という構成も、アニメ=偽の記憶に基づく虚構、実写・写真=事実ということを意識させるものとして出来ている。
 こういう映画表現は、表現としては成功していると思う。
 ただし、語られている内容についての賛否両論は免れないだろう。
 簡単なストーリー紹介は、次のとおりだ。
 「20年ぶりに会った戦友が毎晩うなされるレバノン内戦当時の悪夢の話を聞いている内に、主人公(監督本人)は、自分自身は当時の記憶が全然ないことに気がつく。
 そして、当時の自分を知る戦友達を訪ねて、それぞれの記憶を聞いて回るのだが、そうしているうち次第に自分が戦場で何をしていたのか思い出されてくる。
 だが、それは自分でも封印しておきたかったことだった・・・」
 P・K・デイックやJ・P・ホーガンなどの小説には、他人の記憶に支配され、アイデンティティを混乱させられる人間が出てくるのがあるが、記憶についての今の大衆理解の程度は、心理学を知らないと、せいぜい記憶なんて当てにならないものだというくらいのものだろう。
 記憶による過去の改変などというのは誰にでも起きることで、正確な記憶なんてものはないぐらいのことは、身近に認知症気味の家族がいれば日常的に誰しも体験することだ。
だが、そういうところへ、記憶が、商業ベースで売買の対象になったり、政治的プロパガンダに利用されるようになると、困ったことになる。
 戦時中の出来事の語り部みたいな人の言うことで、あれは正しく、これは間違っているなどということを指摘するのは難しい。
 卑近な例でも、親子や兄弟、そして嫁姑の昔話が本当かどうかは、言った本人にも誰にもわからない。
 多かれ少なかれ、歴史的事実などと言うのは、それがどんなにあり得ないことでも最後まで生き残った勝者の言うとおりになってしまうものだ。
 中国は南京大虐殺を世界記憶遺産にしたいようだが、当時7万人くらいしかいなかった住民をどうして30万人も殺せるのか。
 同じようなことはナチのユダヤ人大虐殺についても言えるが、もはやユダヤ人の人口統計や殺害方法の検証は誰も直接には知らないし誰にも出来ない。
 そういうことをすると、ヨーロッパでは犯罪になるからだ。
 すべて勝者が解放した被害者の記憶に基づいて勝者が主張していることだ。
 だが、記憶というのはそういうものなのだ。
 ありもしない過去を本当にあったこととして記憶を甦らせ、ときには都合良く自他が逆転して描かれたりする。
 映画「イップマン」だって、主人公は実際は中国共産党に追われて香港に逃げてきたのに、日本軍に追われて逃げてきたと描く。
 武勇活劇物のフィクションだからいいだろうと、分かって見ている者はいいとしても、何も知らない者は史実だろうとか、そこまでナイーヴでなくても、大筋は間違っていないんだからいいじゃないかと思ってしまう。
 記憶に基づく証言はどんな証言も合理的に証明できなければ信用できない、というのが事実だろう。
 世の中は、たいてい誰かが他者を批判するため自らの記憶を持ち出す。
 だが、この批判は私の記憶に従っているから正しく、あの批判はそうでないから間違っているなどと、どうして言えようか。
 証言者へのバイアスがかかっている場合は、とくにそれが顕著だ。
 同じものを見ても、人によっては違って見えることもあり、逆に皆が同じように見ていても、事実は全く違うこともある。
 不可知論的にああでもないこうでもないと言っている人がいかにも良心的に見えても、人間は他者からの批判を恐れず、どれかひとつを選ばなければならない。
 だが、それが事実に反しているとわかったときにどうするか?
 あくまで都合のいい記憶に従うのか?
 多分、この映画監督は、レバノン内戦で自分自身パレスチナ人を大人に限らず、少年少女達までも虐殺したのじゃないかと思う。
 そうでなくても、深く関与していると思う。
 もっとも、あくまで潔白だからこそ、こういう映画が撮れたのだとも言えるという善意の解釈もあり得る。
 そんな監督個人のことより、この映画は、イスラエル軍はあくまで直接手を下したのではないと言っているが、それが今のパレスチナ人には通用するだろうか?
 また、記憶への不信をさんざん言い立てながら、思い出したつらすぎる記憶こそが実は本当の事実なのだと、あなたは信じられるだろうか?
 なお、いわゆるユネスコの世界記憶遺産というのは、記憶ではなく、世界の記録遺産と言うべきものだが、それにしても、その記録が検証に耐えないねつ造の記録では意味がないと思う。
 では。

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