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2015年10月28日 / misotukuri

「泰平ヨンの未来学会議」を読む(1)-共産主義的LSDカルチャー批判

「泰平ヨンの未来学会議」(スタニスワフ・レム)読書中。
まだ、半分ほど読んだところなのだが、だいたいどういうことかわかったので、覚えている内に書き留めておこうと思う。
この作品は、アリ・フォルマン監督の映画「コングレス未来学会議」の原作だが、まだ見ていないのでどのように違うのかはよくわからない。
ただ、あとがきで読む限り、泰平ヨン自体は出てこないが、その主張は見事に表現されているとか。
しかし、原作に忠実に映画化するにしても、前半はサイケデリックな感じなので、映画のように実写だけでは無理で、CGを大幅に使わなければならなかっただろうとは思う。
この小説が書かれた1971年という時代の文化的背景を考えると、ベトナム戦争真っ最中、学生運動、ラブ&ピースのヒッピー、LSDカルチャーの末期で、小説もその影響を濃厚に受けていると言える。
LSD体験や他の幻覚剤、覚醒剤などの体験が大衆的蔓延のなかった日本で、しかも、難しいSFを書くレムの小説だということで、30代より若い世代の人間が今この小説を読むと、あるいは新鮮でスゴイと思えるかも知れない。
多分、アリ・フォルマン監督のように。
だが、レムの「泰平ヨンの未来学会議」は、P・K・ディックのように自分自身がドラッグでボロボロになってしまった人間の書いた小説とは明らかに違っている。
これは泰平ヨンという常識的な人間をコマ回しにして、現代社会をあたかも異質な世界に見える他の惑星や未来世界に仮託して風刺しているにすぎないのだ。
ようするに、風刺小説。(風刺小説の価値を否定するものではないが。)
そこで、考えるべきは、レムは泰平ヨンを通じて何を風刺しようとしたのかということだ。
レムの小説は、「ソラリス」と泰平ヨンの短編をいくつか読んだだけで、あるいは見当違いかもしれないが、これは単にLSDカルチャーを風刺したと言うよりは、LSDカルチャーを生んだ人間観に共産主義的人間観を重ね合わせて風刺しているのではないかと思う。
それはどんな人間観かというと、この小説にも出てくるように「精神科学」ではなく、「精神化学」的人間観だ。
つまり、人間の感情や感覚などはすべて薬物でどのようにでも出来るという思想で、例えば、豊かな感情や拡張された感覚に基づく深くて鋭い洞察など、単なる幻覚に過ぎないという冷めた考えだ。
「精神化学」というと、古い世代の人間には一種のパラダイム・シフト的衝撃を受けるかもしれないが、現代ではとっくに精神病に対する薬物療法が発達してしまっており、フロイトなどの精神分析学などは、アドラー心理学も同様だが、古すぎて今や教養レベルあるいは人生相談レベルにまで衰退している。
だから、このような「精神化学」的人間観というのは、現在ではもはやある程度、「常識」だろう。
スタニスワフ・レムというSF作家が、共産主義国家の下でどうして粛清されずに、多分、芸術英雄として生き残れたのか不思議だったが、この小説を読んで何となくわかった。
泰平ヨンの人間観には、人間は生物的機械であるとするコミュニズム的常識があるのだ。
一方、薬中で始終ラリってるヒッピーたちのLSDカルチャーの根本思想では、幻覚を現実と考える。
薬物によって得られた体験を拡張された意識による別次元の実際の体験と考えるのだ。
意識の拡張のための「精神化学」的人生観の前段部分でラリってるものだから、理性が働かず、生々しく迫ってくる幻覚を受容して現実と勘違いしてしまう。
これに対し、コミュニズム的常識人は理性的人間だから、それもまた幻覚であって、それ自体人間が生物的機械であることの証左だと考え、更にそういう宗教と同じ迷妄を脱するには論理的科学的に考え行動しなければならないとする。
人間(つまり、労働者大衆)というのは、基本的には条件反射するパブロフの犬と同じなのだ。
そういう存在であることを理解した上で、労働者大衆を導くエリート党員は、一定の外的刺激に対してわき起こる内的反応について、それが実体を伴うものかどうか、共産主義的理性的に判断しなければならない。
そして、それが泰平ヨンの「常識」であるところの思想的立場だ。
今日はとりあえず、ここまで。
では。

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