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2016年1月23日 / misotukuri

映画「あしたのジョー」の今日的意義度

 先ほど映画「あしたのジョー」(11年、日本、曽利文彦監督、山下智久、伊勢谷友介、香里奈、香川照之他)を見たところ。
 WOWOWエキサイトマッチの解説者で元WBCスーパーライト級世界チャンピオンの浜田剛史氏も解説者の役で出ていたり、WOWOWで熱狂的ボクシング・ファンでお馴染みの俳優香川照之氏が丹下段平役で出ているのは、一ボクシング・ファンとして、見ていてうれしくなる。
 「あしたのジョー」(作画:ちばてつや、原作:高森朝雄)の実写映画は、1970年版(石橋正次の矢吹丈)も見ているが、出来映えはこちらの2011年版の方が良いように思う。
 また原作と違っているところも多いが、ボクシングについてよくわかっているので、映画としてはこれで十分と思う。
 力石のリング禍は、シュガー・ラモスにKO負けしたデビー・ムーアの実話がモデルなのは古いボクシング・ファンなら誰でも知っているだろう。
 私は昔その記事を平沢雪村の薄っぺらい何とか言う月刊誌で見た記憶がある。
 この映画は、ボクシングというものが、どういう人間によって、どういう思いで、戦われるかよく描いている。
 もちろん、現実の世界チャンピオンには、どこの銀行員かと思うような、ハングリーなところがまるでない、ごく普通の人みたいな人間もいる。
 しかし、そういうのは例外だ。
 矢吹丈は、いわば「ドヤ街の希望の星」だが、そういう映画が何故2011年に作られたのか?
 2011年というのは、東北地方太平洋沖地震が起きた年だが、政治状況的には民主党政権下で、変革を期待した国民が政治に大いに失望した時期でもあった。
 そういう時期に作られた「あしたのジョー」の物語が象徴しているとすれば、それは何だろう?
 鳩山由紀夫、菅直人と民主党政権の失政は、リベラルな国民にそういう政府を選んだのはほかならぬ自分たちだという苦い思いを味わわせたことかな?
 大いなる失望・落胆と、持って行き場のない怒りが、単純な体育会系の物語を求めた。
 そもそも中間層が没落し、格差社会の定着が見られる今の世の中で、最低の人間達が互いに死ぬまで殴り合うような話の意義とは、いったい何なのか?
 寺山修司が力石徹の葬式をしようと呼びかけた時代とどう違うのか?
 ボクシング・ファンにはうれしい映画だが、単なる映画ファンとしては、今日的意義をつかみきれないでいる。
 では。

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