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2016年2月29日 / misotukuri

映画「薄氷の殺人」のあまりに薄氷度

 2月も映画を16本見た。まあまあのペースかな?
 面白い映画は沢山あったけれど、パキスタン系英国人がイスラム・テロリストになっていく様を描いた「クリーンスキン 許されざる敵」(ハディ・ハジェイグ)が今日的で一番良かったかな。
 次は、ダメ男たちが男性ストリップをやって男になる昔の映画「フルモンティ」(ピーター・カッタネオ)か。
 だが、今日は孫のお守りで忙しくてしばらく中断していた、映画の感想をすることにしよう。
 #34:「薄氷の殺人(白日烟火)」(14年、中国、ディアオ・イーナン監督、リャオ・ファン、グイ・ルンメイ他)。
  連続バラバラ殺人事件の被害者たちに関わる女と、彼女を愛してしまう元刑事を描いたクライム・サスペンス。
 とにかく、第64回ベルリン国際映画祭で最高賞の金熊賞と男優賞をダブル受賞した傑作というから、期待したのだが、どこが良いのかよくわからなかった。
  イーナン監督は映画「第三の男」(キャロル・リード監督)をだいぶ意識していて、オマージュなんだろうなとは思う。
 しかし、決定的な違いは、この「薄氷の殺人」には、人間の倫理と言うか良心の問題がまったく語られていないことだ。
 もっとも、これは「第三の男」のカトリック作家グレアム・グリーンの脚本・原作とディアオ・イーナンのオリジナル脚本との違いなのかもしれない。
 グレアム・グリーンは映画の方が原作よりよく出来ていると言ったそうだが、それはあの有名なラスト・シーンの処理の仕方で、映画の方がはるかに人間性の理解といった点で優れていると思ったからだろう。
 映画「第三の男」は、あれで愛の物語になった。
 しかし、それは映画の一面でしかない。
 行動規範に対立するものが生まれたとき、人はどちらによるべきか?というのが「第三の男」のメインテーマ。
 日本人なら、ああこれは「忠 ならんと欲すれば孝ならず。孝ならんと欲すれな忠ならず。重盛の進退ここに谷(きわ) まれり」だなと合点がいくだろう。
 オネストでハームレスな男(ホリー・マーティンス)は無道徳な悪者の旧友(ハリー・ライム)への友情より正義を選び、旧友の愛人の女(アンナ)は正義よりも自分を捨てた男(ハリー・ライム)への愛情を選んだ。
 その結果、男は女の愛を得られず、女は愛に殉じてあえて共産圏に強制送還される道を選ぶ。(もちろん、英軍の特別な計らいでそういうことにはならないと思うが)
 どちらが正しいかというより、その人間はそういう行動をとったということと、その結果をきっちり自己責任として受け止めているということに胸を揺すぶられるのだ。
 この「薄氷の殺人」は、その映画的表現の見事さは別として、主人公の元刑事(ジャン)の行動には、愛か正義かという二項対立はなく、なかなか解けないパズルを解きたいという思いがあるだけだ。
 おまけに、愛と正義もちゃっかりいただくという、自己正当化を何とも思わない厚顔無恥さ加減に、ハハアこれが中国人のメンタリティかと思ってしまう。
 まあ、正義を追求すべき刑事だって人間だから、そういう側面もあるのは否定できないが、それは決してほめられた側面ではない。
 女(ウー・ジージェン)にしても、最初から全てを知りながら犯罪に荷担し続けるが、しかも、それは他者愛の自己犠牲とは逆の自己愛の自己保身のためだと言って過言でなく、ようするに、「恐かったの」と言って同情を買おうとしているだけ。
 これでは、情状酌量は得られるだろうが、それはあくまで人間の弱さに同情してのもので、弱い人間でも時には強くあらねばならないこともあるのだということに変わりはない。
 そういうことを考えると、これは同じ三角関係であっても、「第三の男」とは真逆に近い似て非なるストーリー。
 私はまったく感動できなかった。
 こういう映画が金熊賞をもらったというのは、何でかなと思う。
 では。

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