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2016年3月5日 / misotukuri

映画「悪魔の存在を証明した男」のだめよダメダメ度

 昨夜は、ホラー映画を見た。
「悪魔の存在を証明した男」(14年、米、デヴィッド・イアング監督、シェーン・ジョンソン、ジュリー・マクニヴン他)。
 題名からして、多分、ヒドイ映画だと言う人も多いかと思う。
 だが、私はなかなかイケテルと思った。
 タロット占い師のお告げを信じた奥さんを事故で亡くし、一切の超常現象の存在を信じられなくなった男は、我が身を実験台にして悪魔の存在を検証しようとしたのだが・・・という話。
 別に最初から悪魔の存在を検証しようとしたわけではなく、超常現象のイカサマを暴露しようとして、そうなってしまっただけなのだが、その流れが実に自然で、よく出来ている。
 実は、この記事、もう6回くらい書き直しているのだが、悪魔のせいか、何故か邪魔が入って最後まで書き終えられない。
 しかし、もう打ち止めにしたいので、終わりに死体・・・
  とまあ、このように、「したい」と入力すると、「死体」と変換されたりしてね。
 うんざりして萎えようとする気力を振り絞って、一つだけ。
 ポータブルの酸素吸入器をつけている聖職者が自分の幼い頃の体験を話した後、「悪魔の呼びかけには決して応えてはならない。聞こえているのを知られると、どんどんつけ込んできて、あなたの精神が崩壊するまで続くから」というようなシーンがある。
 これだよ。
 人間はこのように禁じられると、ついその禁を破ってしまうものだ。
 ロトの妻の塩柱の話を思い出す。
 決して振り返ってはならぬと警告されたのに、振り返って見てしまったロトの妻は何故塩柱にされるという罰を受けなければいけなかったのだろうか?
 私の考えはこうだ。
 最初は、非寛容なヤハウェの神は、ソドムとゴモラの堕落した生活に内心未練を残す妻が許せなかったのだと考えた。
 だが、それだけではないような気がした。
 そもそも何故人間はそのような堕落した生活に溺れていくのか?
 多分、神は、堕落のきっかけになる人間の好奇心というものを罰したのだろう。
  それは悪魔の呼び声なのだ。
 その声を聞いてしまうと、森進一の「年上の女」ではないが、神さまは決してわかってくれないのに、「だめよダメダメいけないと」結局、命燃やすことになる。

 「私は好奇心の強い女」という映画があったが、だが、好奇心に負けるのは女だけでない。
 我が国の伊弉諾尊(イザナギノミコト)という神さまも火の神を産んだ産褥熱が元で死んだ妻の伊弉冉尊(イザナミノミコト)を黄泉の国まで迎えに行ったのだが、「ちょっとお化粧するから外で待っててぇ。決して見ないでね」と言われて・・・という黄泉比良坂(よもつひらさか)の話があるではないか。
 ちなみに、わたしゃ、その黄泉比良坂(よもつひらさか)に行ったことがある。
 千引き(ちびき)の岩も見たよ。
 伊弉冉尊のお墓にもお参りした!くわばらくわばら。
 かように、好奇心に負けて、禁じられていることをやってしまうとただごとじゃなくなるという教訓話は、考えてみればいっぱいあるのにねえ。
 この映画「悪魔の存在を証明した男」のように、それに気がついたときにはもう遅すぎるのだ。
 悪魔の声は雑音に紛れて良く聞こえなかったのだが、その雑音にも実は意味があったのだ・・・・
 では。

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