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2016年3月7日 / misotukuri

映画「バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」の飛べない度

 昨夜は、映画「バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」(14年、米、アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督、マイケル・キートン、エドワード・ノートン、エマ・ストーン、ナミ・ワッツ他)を見た。
 この「バードマン・・・」の主役は、20年ほど前にハリウッド映画「バードマン」シリーズで一世を風靡した元人気スター。
 起死回生を賭けて、NYのブロードウェイでレイモンド・カーヴァーの作品を自ら脚色演出主演した舞台劇をやろうとしているのだが、・・・というお話。
 もう最初から、どうなるかわかりきった映画なのだが、出来は良い。
 単純に言えば、舞台劇のメイキング・ドラマで、「8・1/2」、「アメリカの夜」などと同じ。
 演劇界の内幕物とすれば、落ち目のシェイクスピア劇の名優の付き人を主役にした「ドレッサー」なども同じ趣向。
 これまでにないところというか、新鮮味があるのは、映画と舞台の違いを通じて、現実とはそして現実感とは何かということを考えさせられる点かな?
 特にエドワード・ノートンが登場してからの数シーンは、演劇論としても文学論としてもさすがプロの脚本だなと思った。
 この監督が長回しの撮影に拘るのは虚構の映画にリアリティを与えたいからだろう。
 登場人物の内、かっての夢を追う主役リーガン(マイケル・キートン)、その娘の元薬物依存症で今ネット中毒の付き人サマンサ(エマ・ストーン)、舞台でしか真実を表現出来ない有名舞台俳優マイク(エドワード・ノートン)の三人は、現実認識という点で全員問題がある。
 現実や現実感についてのSF的な細かい話は省略するが、この三人はそれぞれ虚構と現実の間で真実を求めてあがいているのだ。
 問題のラストシーンの解釈だが、迷探偵Jinchanはこう推理する。
(まだ映画を見てない人は、以下、パスするように。)
 一見、サマンサの視点から描かれているようだが、あれはあくまでリーガンの視点から描かれているのだと思う。
 とすれば、答えは一つ。
 「バードマン」が墜落死するまでの短い時間に見た幻想。
 臨死体験だな。
 愛娘にこう思って欲しいという願望がそういう幻想を見せたのだろう。
 では。
 

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