賭博でなぜ悪い?-罪の起源を考える
先日から世の中を賑わしている野球賭博問題の言説を聞いていると、いろいろな混乱があるように思える。
混乱の元は、次の3点だ。
1 どういう行為が賭博にあたるか、わかっていない
2 賭博が何故いけないか、わかっていない
3 賭博なのに賭博でないと強弁している者がいる
1と3は、刑事専門の弁護士に聞いたら直ぐわかることだが、2は刑法の解釈の問題ではないので、どんな説明を受けても、納得出来ない人は納得出来ないと思う。
国家権力が認めない私的賭博を何故刑法で罪とするのか?ということに疑問があるからだ。
賭博禁止の歴史を遡れば、江戸時代初期の統治者の余計なお世話のパターナリズムに行き着くと思うが、それについては、文献学的に確たることを言う能力を持たないので、専門家におまかせする。
そもそも、法律上の罪は、いけないことなのか?
法律上の罪は、国家権力による処罰の対象になるものの呼称にすぎず、それ以上のものではない。
そこまで言ってないのだ。
刑法「第185条 賭博をした者は、50万円以下の罰金又は科料に処する。(以下、略)」
とあるだけだ。
どこにも、「賭博はしてはいけない」とは書いてない。
「処罰するぞ」と脅して間接的に「賭博はしてはいけない」と禁止しているだけだ。
民主主義国の法律は、国民が決めることだから、大多数の国民が「そんなこと別にいいんじゃないの?」と思うようになれば、「いけないこと」じゃなくなる。
この刑法第185条以下の賭博関係の条文だって、いずれは削除されるかもしれない。
もし、そういう時が来たら、過去に賭博で処罰された人は、何だったのか?ということになる。
法で処罰出来ないものを処罰する社会的制裁も同じだ。
だが、絶対神を奉ずる宗教的制裁は違うね。
例えば、「モーゼの十戒」では、こうだ。(Wikipediaからの引用)
1. 主が唯一の神であること
2. 偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)
3. 神の名をみだりに唱えてはならないこと
4. 安息日を守ること
5. 父母を敬うこと
6. 殺人をしてはいけないこと(汝、殺す無かれ)
7. 姦淫をしてはいけないこと
8. 盗んではいけないこと
9. 偽証してはいけないこと
10. 隣人の家をむさぼってはいけないこと
とまあ、「すること」、「してはいけないこと」が列挙されている。
ちなみに、ここでも「賭博をしてはならない」というのはない。
これは、信者がいる限り、信者の間では有効だ。
違反した場合の、処罰は地獄行きだ。
・・・と思ったが、旧約聖書には人が死んだら墓に入るだけで、天国や地獄に行くとは書いていないようだ。
とすれば、ユダヤ教というのは、現世宗教なのか?へーっ!目からウロコだ。
何か、宗教的制裁の根拠がわからなくなったな。
でもまあ、神と人間を人間とAI(人工知能)ロボットに置き換えると、ある程度、理解できるのではないかな?
AIロボットの創造者たる人間は、最初は人間と同じように考えるディープ・ラーニング・タイプのAIロボットたちが知性ある生物として勝手に動き回るのにまかせていた。
やがてAIロボットたちは、仲間内で強さを競って互いに破壊し合ったり、自己の機能拡張のために他のAIロボットや機械を襲って部品を調達(ようするに共食い、異種生物との乱交)するようになった。
知性を持たせてあるので、放置しておけば自然に自主学習して、「AIロボットのAIロボットによるAIロボットのための」共同体社会が出来上がるかと思ったが、全然逆で、まったく混乱の極みとなったのだ。
こうなってしまったとき、このAIロボットの設計者は、どういう行動を取るか?
多分、これらのAIロボットのうち、オリジナル状態を保っている少数のマトモなのを残して他は全部廃棄処分にし、残した少数のAIロボットのプログラムに「しなければならないこと」と「してはならないこと」を定めた絶対的倫理コードを書き込むだろう。
まるで、「ノアの箱舟」と「モーゼの十戒」みたいだね。
というより、そういう話を作ってみただけだが。
これが、罪の起源だ。