Skip to content
2016年5月6日 / misotukuri

「冒険としての社会科学」を読む-良い子病ワクチンみたいな本

最近、知人友人の訃報が続き、いずれも私とそれ程違わない歳なので、ショックを受けている。
 皆まだ死ぬような歳でもないのにと思うと、私も死ぬまでに読んでおきたいと思いつつ読み残してきた本を一刻も早く読まなければと思う。
 というわけで、「冒険としての社会科学」(橋爪大三郎著)を読んでいる。
 この本は4つの章からなっている。
 1 社会科学はこうして学ぶ
 2 日本国憲法はどうして美しいか
 3 マルクス主義はどうしてダメになったか
 4 日本国憲法はどこがいかがわしいか
 ただ今、第三章の途中なのだが、後半日本の学生運動の歴史に入ってからは著者の同時代史的様相を呈し始めて興味深い。
 第一章、第二章は、中高生レベルの内容で、市民社会論がわかりやすく書かれている。
 これは著者が自分が話していることを良く理解していて、家庭教師にでもなったかのような語り口で、噛み砕いてさまざまな疑問に答えている。
 細かいところについての反論は出来るが、ま、子供に教えるにはこれで十分という教科書の副読本という基本的理解で問題ない。
 この本は、育ちも良くて非常に頭のいい中高生が、「社会を良くしたい」などという熱病に取り憑かれる前のワクチンとして、役に立つだろう。
 過去になった思想の復権などという無駄な努力をせず次のステージに向かうことが出来るのではないかと思う。
 というのも、これはSFにも通じることなのだが、物事をそれが当然と絶対視せず相対的に見る必要性というのがひとりでに解る内容になっているからだ。
 つまり、どういう考え方にも、それが生まれてきた理由というものがある。
 それはいわば一つの前提であり、その考え方を展開し構築するための仮説なのだということだ。
 あくまで仮説であって、絶対的な真理であるとは必ずしも言えない。
 別の考え方も前提が違えば当然成り立ち得るからだ。
 普遍的と思える価値観もそれを成り立たせる前提というのがあるのだ。
 前提が崩れている状況では、その価値観は成り立たない。
 アインシュタインの相対性原理がもたらした世界観を揺るがすショックは、自然科学のみならず社会科学にも影響を及ぼした。
 そういうこともあって私は「社会科学」などという言葉自体を認めないのだが、この著者は「科学」の定義を変えることで「社会科学」という言葉を延命させている。
 それは何故か?彼がマルキシズムの影響を受けた社会学者だからだ。
 まだ、「科学」に対する宗教的思い込みが残っている。
 私が高校三年生の時に同級生で資本論の受け売りをする奴がいて、一度、「お前のコミュニズムは宗教だ」と言ってやったら、「宗教を否定しているのに、それを宗教だとは、お前こそわかってないな」と言われたが、もちろん理解のレベルとしては私の方が深かったのだ。
 だいたい、社会学が科学なら民俗学だって科学だと思うが、まさかこじつけ学問のような民俗学を科学とは言うまい。
 どちらも科学的な調査手法を使っているだけで、結論は対象になった人々が思い込んでいることにすぎない。
 しかし、それも学問であることは確かなのだから、わざわざ「科学」に拘ることはないと思う。
 ま、それは余談だが。
 ようやくこの本も半分読んだところなので、後半、印象が変われば、またレポしよう。
 では。

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。