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2016年7月2日 / misotukuri

映画「ダークシティ」を解剖する度

 昨日、映画「ダークシティ」(98年、米、アレックス・プロヤス監督、ルーファス・シーウェル、ジェニファー・コネリー、キーファー・サザーランド、ウィリアム・ハート他)を見た。
 この映画、2度目なんだが、初めて見た時のラストシーンが何とも強く心に残っていて、いつかまた見ようと思っていた。
 主人公のジョンが創り上げたシェル・ビーチが見える埠頭の突端で、新たにアンナとしての記憶を刷り込まれ、妻としての記憶を消去されたエマと出会うシーンだ。
 実は、ジョンの記憶も借り物で、エマの記憶も借り物なのだが、もはやそれはどうでも良くなっている。
 絶滅に瀕する宇宙人(知的生命体)が切に求めた人間の持っている”心”とは何だろう?
 突然だが、「宇宙に外側はあるか?」(松原隆彦/著)を読んでいて思ったことだが、ダークマターって、この宇宙というレイヤー・プログラムを走らせるテンプレートのようなものではないだろうか?
 そう考えると、いろいろ説明がつくことが多いと思うのだが。
 おもいっきりSF的な空想なので、当たっているかどうかはわからないが。
 しかし、もしそうなら、本当にこの世界は、ヴァーチャル・リアリティの中にいるのと同じ。
 この映画「ダークシティ」は、映画「マトリックス」よりもまだ深い。
 「マトリックス」が続編というか、スピン・オフにしか思えない。
 宇宙人は、単一知性で、”心”がないという存在という設定だが、そういう知性で想像出来るのは、「京」のようなスーパー・コンピュータ。
 如何にビッグ・データを集めようとも、自分と同類の他者を認識しなければ、”心”を持つことは出来ないだろう。
 同類の他者と区別することで、自意識というのは生まれる。
 しかし、そういうことは、起きえようか?
 スーパー・コンピュータ同士を交信させたら良いのではと思うかもしれないが、そうは簡単にいかないだろう。
 同期してしまったら、如何にラベルで区別しても、単一知性が合体拡張しただけに終わり、他のスーパー・コンピュータ知性を認識したとは言えなくなる。
 この映画の宇宙人は、進化の極まで行ったが、まだそこのところがわからない。
 だから、「(”心”は)頭(記憶)の中にあると思っているのだろうが、探すところを間違っている」とビッグ・データの一つにすぎない主人公ジョンに嘲笑われるのだ。
 ”心”(つまり、自意識)は、如何に知能が高くても、外界を認識するだけではダメで、外界にいる自分と同類の他者を認識しなければ、ブレイクというかテイク・オフというか、生まれないと思う。
 そのことによって、初めて、自分を見つけることが出来るのだ。
 だが、自分がビッグ・データの一つでしかないとわかった時、たとえ、現実を自分の思うがままに改変出来る能力(チューン)を持ったとしても、真実の世界、すなわちこの自分が存在している宇宙の外側に出るのは何の意味もないことなのだ。
 何故なら、記憶も肉体も全て自分のものではなく、作り物だからだ。
 しかし、作り物でも、まれにそれに気がつく人間もいて、たまたま主人公もそうだったというわけだ。
 そこで、彼はこの世界を自分の望ましい姿に創造していくことを選ぶ。
 つまり、自己プログラミングし、環境を適正化するソフトウェアとしての真実の自我に目覚めたわけだ。
 我々人類が遙かな未来にかけてどのように進化していくのかよくわからないが、如何にネットが普及しても、スタンド・アローンを忘れない限りは、進化の袋小路に入ることはないと思う。
 ネットというのは、要するに人類を集合知性体化の方向に誘導する。
 これは、ロバート・C・ウィルソンの「連環宇宙」に出てくる、1万年後の二大政治勢力である、感情の深いレベルでの一体化を志向する大脳辺縁系民主主義とあくまで知性レベルでの一体化を志向する大脳皮質系民主主義のようなもので、どちらかが一方を駆逐してしまうと非常に危険だ。
 だが、昨今、「アラブの春」とか「英国の国民投票によるEU離脱」とか民主主義の運命を暗示するような事件が起きて、人類は進むべき方向を間違えているような気がしてならない。
 しかし、これも社会実験のシミュレーションが出来るというヴァーチャル・リアリティの効用を考えると、我々のこの宇宙が超知性の作ったヴァーチャル・リアリティかもしれないという可能性を棄てきれない。
 この場合、超知性の側の時間経過は我々のよりもゆっくりしているはずだから、我々の知性が進化のスピードが速くて、いずれ超知性を上回る可能性もある。
 2016年にAlphaGo (アルファ碁)というAIに我々の最高知能の持ち主が完敗したように。
 つまり、この映画「ダークシティ」の主人公のように、ダークシティを創った宇宙人よりも能力が上回ることは、十分あり得ることなのだ。
 それが、一筋の光明というものかもしれない。
 今夜の話、わかるかな?
 ついて来れたら、キ印倶楽部にようこそだ。

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