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2016年7月18日 / misotukuri

映画「チャイルド44 森に消えた少年たち」の「悪の凡庸」度

 昨夜は、久しぶりに映画「チャイルド44 森に消えた少年たち」(15年、米、ダニエル・エスピノーサ監督、トム・ハーディ、ノオミ・ラパス他)を見た。
 原作は、トム・ロブ・スミスの「チャイルド44」。
 これに続く、「グラーグ57」、「エージェント6」三部作の第一弾だ。
 何年か前に読んだ原作があまりにも素晴らしいので、映画の出来はどうかなと思ったが、まあそれなりだな。
 特に最初の飢餓の重要なシーンが抜けている。
 主人公のレオのアイデンティティに関わる事で、アレーッ、そんなー!という感じだ。
 てっきり相思相愛と思い込んでいた妻が実は自分を恐れ忌み嫌っていて、他にも重大な秘密を抱えていたという設定も描写がツッコミ不足で、衝撃度が足りない。
 列車から夫婦で脱出する方法も、原作には政治犯を貨車から脱出させないえげつない仕掛けがあって、エエーッ、そんなー!というM:I的アクションで脱出するのだが、これでは大して困難じゃない。
 原作と違うところを逐一挙げてもしかたがないので、これくらいにしておくが、映画はただ単にストーリーを追っているだけという印象かな?
 もっとバランスを欠くくらい細部に拘って、テーマを盛り上げるべきだった。
 そのテーマとは何かだが、冷戦が終わって20年も経って発表された小説に社会主義批判、特にスターリン体制への批判を見ること自体ナンセンスで、スターリンの「殺人は資本主義の病である」という言葉から、「楽園(ソ連)に殺人事件はあり得ない」から(殺人事件があっても)これは事故なのだなどという欺瞞がまかり通る社会の恐怖を描く、なーんてものではない。
 「1984年」のように全体主義(特に共産主義)の体制に虫けらのように押しつぶされる個人の夢や愛を描いたようなものでもない。
 これは、「悪の凡庸さ」ではないかと思うのだ。
 小説は、たまたま第二次世界大戦での英雄にされてしまったという以外、当時のソ連では特に変わったことのないよくある生い立ちの平凡な青年が、スターリン体制下の国家保安庁(要するに秘密警察)の捜査官として出世街道を歩んでいたのに、個人的理由から左遷されたことをきっかけに、組織悪である「悪の凡庸さ」に埋没するのではなく立ち向かうことに目覚めていくという人間としての成長物語を描いたものだった。
 人間というのは、持って生まれた資質と置かれた環境次第でどうにでも変わり得るものだが、そういう必然に意志の力で抗うこともできる。
 しかし、それにはよほどのことがきっかけとしてないと現実には難しい。
 主人公レオの本性は善人で、頭脳明晰、頑健な体躯と容貌に恵まれている人間だが、そういう人間でも、秘密警察に入れられれば、恐ろしい怪物にもなり得るわけで、まさにそうなりかけていた。・・・(資質と環境次第で善人でも「悪の凡庸さ」に埋没する)
 愛する妻をかばって失職左遷されたのに、妻は自分を愛するどころか恐れ憎んでいたということがわかり、レオは失うものがなくなって初めて自己の本性に忠実な善き人間になる転回点を迎える。・・・(「悪の凡庸さ」に決別し、自分に忠実に生きるきっかけ)
 このきっかけというのは、組織(悪)に忠実な人間から自己(善)に忠実な人間へと転向出来る機会ということ。
 だが、組織が(善)で自己が(悪)という場合もあるので、どちらの生き方がどうとも言えないが、少なくとも、納得出来る生き方というのは、善悪を問わず、自己に忠実に生きることだろう。
 TVドラマの「クリミナル・マインド」の中にこういうのがあった。
 死刑囚に対しFBI行動分析官が「君がこうなったのは(資質と環境からして)『必然』だったんだよ」と言うと、いきり立っていた死刑囚が「そうか、『必然』だったのか」と自分の過去をふり返り考え込んでしまうというシーンがあった。
 この場合、悪人が悪を行ってそれが『必然』なら、そんな悪人を裁き処罰する意味って何なのだろうか?と思ってしまう。
 社会防衛論でしかうまく説明出来ないが、それは危険思想ということになっている。
 まあ、それはともかく、この「チャイルド44」の子供ばかりを狙った殺人鬼もまた「やめられないんだよ」と自己の行為が資質と環境からして『必然』であることを主張する。
 このような『必然』説は、決定論的だが、決定説が自由意思説より根拠があるかといえば、そうとも言えない。
 なぜなら、どちらにしても証明不能だから。
 犯罪加害者にとって『必然』説は好都合だが、それが成り立つなら被害者にも被害者となる『必然』があったと言えるのだろうか?
 可能性はあるが、そうとも言えないだろう。
 「悪の凡庸さ」に埋没したアイヒマンが、自分の行為を当時の自分の立場なら、誰がしても同じ結果になるのは『必然』だろうと言ったとして、そうだろうなと思う。
 しかし、被害者となった大勢のユダヤ人全てに被害者となる『必然』があっただろうか?
 あった人間もいたと思うが、彼にとっては全て記号としてのユダヤ人でしかなかったと思う。
 とすれば、アイヒマンもまた記号としてのナチス戦犯として裁かれたのだろう。
 「チャイルド44」のレオもまた、罪滅ぼしに、過去に殺した(自分がしたわけではないが、監督責任がある)夫婦の娘姉妹を養女に迎えるが、自分の行為の『必然』性を説明してもしなくても彼女たちに許してもら得るのはだいぶ後のことになる。
 映画では、そういう左遷前のエピソードがだいぶ落ちており、腕利きの悪が腕利きの善に変身するには、ちょっと説明不足だ。
 また、環境の変化ということで、クレムリンの政変にももっと言及すべきだった。
 あれではよくわからないだろう。
 ライーサ役のノオミ・ラパス(「ミレニアム」シリーズのリスベット・サランデル役)は、ちょっとイメージ違ったかな?
 なお、小説の第二部「グラーグ57」完結編の「エージェント6」共に「チャイルド44」にも勝る傑作なので、あわせて三部作是非お読みいただきたい。
 では。

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