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2016年11月30日 / misotukuri

「王とサーカス」読了-素人ジャーナリスト探偵が職業倫理でウジウジ度

 「王とサーカス」(米澤穂信著)読了した。
 「2015年このミステリがすごい!」国内編第1位の作品だ。
 多くの読者が推している日本物がどれくらいすごいのか興味があって読み始めた。
 その前に読んだ「2014年このミステリがすごい!」国内編第2位の作品の「さよなら神様」(摩耶雄嵩著)との比較になるが、斬新さでは「さよなら神様」の方が上だな。
 なんか古くさい感じなんだよね。
 確かにミステリとしてよく出来ていると思うが、海外物と比べるとまだまだという感じだな。
 ちなみに「2013年このミステリがすごい!」国内編第2位の作品の「教場」(長岡弘樹著)は、警官小説として世界レベルの作品だった。
 ま、それはともかく、「王とサーカス」のどこがまだまだなのか考えてみたい。
 いつものことながら、私のミステリ殺人事件・「フーダニット」三原則を挙げると、次のとおりだ。
  1 犯人は登場人物の中にいる
  2 如何にも怪しい人物は犯人ではない
  3 犯行の中に動機がある
 もちろん、単独犯ばかりでなく、複数犯もあるし、交換殺人とかもあるので、簡単ではないが、基本はこれで真犯人を絞ることができる。
 あとは、真犯人が如何にしてそれをやったか?つまり、「ハウダニット」の問題になる。
 だが、これは言わば一昔前のミステリに通用した原則。
 今のすれた読者は、もはやこういうのでは意外性もなーんもなく、まったく驚かないのだ。
 だから海外では例えば、「謝罪代行社」(ゾラン・ドヴェンガー著)のようなひねった作品が出て来た。
 これは、登場人物の誰一人として、犯人すら事件の全貌を知っているわけではなく、部分的にしかわからないまま終わってしまう。
 結果として、一番よく知っているのは作者以外には読者だけとなる。
 こういう造りのミステリでは、犯人が早い段階で登場しても、独白だけで、性別、年齢、身体的特徴、生活環境、職業、名前など具体的プロファイルがわからず特定出来ない。
 これができるのは、プロの捜査官、検屍官、科学検査官など。
 だから、そういう人々を主人公とするミステリが増えたのも当たり前のことだろう。
 ようするに、海外のミステリは、現実の犯罪捜査に近くなってきたということだ。
 しかし、そうなると、どれもこれも似たり寄ったりの事件や犯人ばかりになって、ミステリとしてはすぐにネタが尽きて息切れ状態になって来る。
 そこですぐにシリーズ化がおき、背景で進むレギュラー登場人物たちのサブストーリーが事実上のメインストーリー化することになる。
 読者や視聴者も、事件の謎の解明なんかより、彼らの私的生活の方が興味の対象となる。
 この「王とサーカス」にもそういう気配があるようだ。
 この作品は、実際にあったネパール王宮での国王夫妻を始めとする王族集団射殺事件の数日後に起きた一人の軍人(准尉)の殺害事件を巡って、たまたま居合わせた女性ジャーナリストが事件の真相解明と報道の倫理についてあれこれ悩む話だ。
 つまり、一つは素人探偵の犯人さがしであり、二つ目はプロの内輪ネタ話でできている。
 最初の素人探偵物としては、いろいろな要素があってよく出来ていて見事と思う。
 ただし、登場人物が少なすぎるから、私のフーダニット三原則とアリバイなどのハウダニットによって、すぐに犯人が絞られてしまう。
 主人公が旅先で出会った人物の中の誰かが殺された時点で、既に登場している人物の中に犯人がいるというのは、何度も言うが、一昔前のミステリ。
 それが本格物のフェア・プレイじゃないかと言えばそうなのだが、もはやそれではダメなのだ。
 せめて、登場人物をもっと倍ぐらいに増やさないとミスディレクションの効果がないだろう。
 それにこの程度なら長編でなく短編か中編で十分の内容と思う。
 また、これは捜査権の問題だが、殺されたのが軍人なら、警察ではなく、NCISではないが、ネパール国軍の憲兵が出てくるのでは?
 次に、ジャーナリスト業の内輪ネタ部分だが、駆け出しとは言え、主人公がうじうじと倫理的すぎて嘘っぽく、うんざりする。
 例えば、「助けを求める人の写真を撮るより、早くその人を助けてやれ」という批判は、よくあることだが、これも状況を無視した筋違いの批判が多い。
 このような場合、ジャーナリストはあくまで悲惨を伝えるのが仕事。
 助けるのは、一人や二人くらいならできるかも知れないが、大勢いたら事実上できない。
 それは、ジャーナリストの伝えを受けた側がすべきことだろう。
 ジャーナリストがそういうことでバッシングを受けたら、ジャーナリズムがそう反論すべきだ。
 それができないのは、何故なのかこそ問うべきだろう。
 また、子供労働者の問題も、劣悪過酷な労働環境で奴隷的に働かされている悲惨な子供たちを告発報道してくれたおかげで、”失業した”子供たちが街に溢れ、ものもらいやゴミ拾いだけでなく犯罪に走るようになり、状況は却って悪化したということも、問題のすり替え。
 人権、中でも子どもの人権は、国家を超えた価値観で、国家がそれを自国民の子どもたちに保障していないことが問題なのであって、それを告発した報道が悪いのではない。
 だが、そう受け取る子どもたちがいたら、それは彼らの逆恨みというものだろう。
 彼らは悪い大人たちに言われたとおりに言っているに過ぎないのだから。
 だから、むしろ、「それは違うよ、悪いのは君ら子どもたちを食いものにしている大人たちだよ」とジャーナリストが反論すべきだ。
 それを、素人探偵ができる知能を持ちながら、「それもそうだね」と悩み込んでしまう。
 これは自己欺瞞だろう。本当は悩んでなどいないのだ。
 こんな人間では、三振はしないかも知れないが、ホームランも打てないね。
 本当のホームランバッターは、決してホームランを狙わないと言うが、指名打者やピンチヒッターは、ホームランを狙う。
 だって、それしか存在感をアピールできないだろ?
 内向き志向の強い日本社会では、ジャーナリズムもまた同じで、海外に行くジャーナリストは会社付きでもフリー・ジャーナリストと変わらない。
 会社はそういう社員を「ホームラン打ってこい」と言って送り出すのだ。
 あるいは「(ネタに)食いついてこい」と。
 それに、そういう功名心に燃えるジャーナリストであって初めて自分の報道がもたらす倫理的問題にも痛切感が出るというもの。
 主人公がジャーナリストという職業と倫理のはざまでウジウジ悩むのは、信念の欠如に問題があるからだろう。
 主人公は、毒にも薬にもならない記事を書き上げ、三振しなくて良かったと自己満足して、ネパールを後にする。
 こんな主人公に感情移入出来るのだろうか?
 それが問題だな。
 では。

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