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2017年5月5日 / misotukuri

映画「リジェネレーション」の再生不能度

 昨夜、映画「リジェネレーション」(15年、英、サイモン・パメル監督、ラクラン・ニーボア、ノラ=ジェーン・ヌーン他)を見た。
 だが、何と言えば良いのか、久しぶりに、何のことやら、さっぱりわからない映画を見たという感じかな?
 とにかく、まず、わからないのだ。
「リジェネレーション」とは、「再生」の意味。
 もっといい人生を提供する会社と契約していい人生を手に入れた男の誕生日の夜中に突然、武装した男たちがアパートにやって来て、恋人が拉致されてしまう。
 後を追いかけたものの果たさず、呆然としているところ、「今すぐ家へ帰れ」という電話があり、帰ってみると、拉致されたはずの恋人の死体があった。
 そこへ再び電話があり、「助かりたければ、外のタクシーに乗れ」と言う。
 そして、連れて行かれたところは、もっといい人生を提供する会社で、恋人はもっといい人生を選択して、お前の元を去った、死体はそっくりさんの分身だ、お前も殺人犯として追われており、助かりたければ、まったく新しい別の人間になれと選択を迫られる。
 否応なく、記憶を消され、男は新しい顔(まったく同じ顔に見えるが?)に、新しいプロファイル、そして、新しい生活環境を与えられることを受け入れる。
 そんなある日、らせん階段で何者かに拉致された元カノとバッタリ出会ったのだが・・・・
 似たような映画に、ジョン・フランケンハイマー監督の「セコンド/アーサー・ハミルトンからトニー・ウィルソンへの転身」(66年、米、ロック・ハドソン他)という傑作があるが、50年も経ってこの程度のSFしかできないのかという思いはあるね。
 もっと、見ている者にわかるように状況説明をする必要があるのでは?
 ヴァーチャル・リアリティの中の話なのか、多元宇宙の話なのか、整形と記憶操作で現実と幻想が入り混じった話なのか、いずれにせよ、どれが本人でどれが分身なのかよくわからない。
 クローンものなら、例えば、クローンの方がもうちょっとエッジが効いているというか、コントラストがキツく出ているとか、何かオリジナルとはちょっと違う存在にするとかいう工夫が必要だ。
 ラストも、オリジナルが勝ったのか、分身が勝ったのかよくわからない。
 あるいは、分身を含め何人もの自分がいるのは、元々、この自分もオリジナルではなく、分身の一人であり、他人の人生を生きているどこかの誰か(自分でもアイデンティティを喪失して、わからなくなっている)とか。
 逆に、すべてが区別のつかない自分であり、オリジナルか分身かは意識の当て方によって決まるという複数の個体にまたがって存在する集合意識的な自分というか、元々、脳内でしか存在しない意識内でのシミュレーションをしている自分(内心の声の具象化)だとか・・・
 そもそも、答えを求めてはいけない映画なのか?
 わからないものの答えを求めようとせず、アタマの悪い人の人生のようにそのまま描くとこうなる。
 元カノ(本当の元カノかどうかわからないのに)と一緒になりたいという思いだけで行動していて、自分とは何者で何処から来て何処へ行くのかという疑問を持たないタイプの人間。
 彼のいる世界は、彼のような人間が主役になるには難しすぎる世界なのだ。
 駄作だな。こういうの、好きだけど。
 では。

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