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2017年5月18日 / misotukuri

映画「イヤー・オブ・ザ・スネーク/第四の帝国」の報道の萎縮度

 昨夜は、映画「イヤー・オブ・ザ・スネーク/第四の帝国」(本邦劇場未公開、12年、独、デニス・ガンゼル監督、モーリッツ・ブライプトロイ、カシア・スムトゥニアク他)を見た。
 これは、第二次チェチェン紛争で名をなした若き指導者プーチンを告発して暗殺されたジャーナリスト、アンナ・ポリトコフスカヤの事件を思わせる作品だ。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%8A%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%83%88%E3%82%B3%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%A4
 彼女の「チェチェンやめられない戦争」は2004年に日本でも翻訳されてひとしきり話題になったが、チェチェンは日本人にはあまりにも遠く、すぐに忘れ去られた。
 https://www.amazon.co.jp/チェチェン-やめられない戦争-アンナ・ポリトコフスカヤ/dp/4140808918/ref=cm_cr_arp_d_product_top?ie=UTF8
 この映画「イヤー・オブ・ザ・スネーク」は、ドイツ人のジャーナリストが大義なきチェチェン戦争の告発をする女性ジャーナリストに恋し、その手助けをしたところ、逆にFSB(KGBの後進)の陰謀に巻き込まれ、投獄されてしまう話だ。
 チェチェンのテロリストたちの獄舎に入れられるのだが、彼らには刑務所長のスパイではないかと疑われ、半殺しの目に遭う。
 たまたま、主人公の同じくジャーナリストだった亡父と獄舎のボスが親しかったことがわかり、殺されることを免れ、逆にチェチェン戦争の真相を教えられることになる。
 盗聴法や共謀罪が報道を萎縮させるなどという軟派なジャーナリストたちの意見が喧しい日本と違って、彼らは報道に命を張っている。
 だが、彼らの当局に対する一時の勝利は、常に死の報復を招くのだ。
 この映画でもチェチェン独立派による地下鉄爆破テロがあり、その犯人等の行動の一部始終が監視カメラで撮影されていて、動かぬ証拠とされるのだが、あまりにもできすぎており、国家による自国民を犠牲にしたテロを疑わせる。
 だが、そんなからくりは一般市民にはわかるはずもないこと。
 先月、サンクトペテルブルクで地下鉄の爆破騒ぎがあったばかりで、キルギスタン系の青年の自爆テロが疑われているが、真相はわかったものでない。
 報道が萎縮するのはこういう力と力がぶつかり合う国柄のところの話だが、萎縮する人間というのは、どこの国でも同じと見える。
 やはり、守るべき何かがある場合、そこが弱味となって脅迫されることになる。
 対戦型の戦いにおいて互いの弱味を突かないと言うルールは、成り立ちにくいので、それは仕方がないこと。
 とすると、マウンティングされたくないという気骨のある人間は、持てる武器で戦うしかないのだ。
 この映画の結末をどう見るかだが、あのような脅迫以外に何の効果もない誓約書にどういう意味があるのかよくわからない。
 また、密かに隠されていた主人公の亡父(旧東ドイツのマルキストのジャーナリスト)のプーチン批判の没原稿をゴシップ誌の編集長がわざと知らん顔して掲載するというのは、ジャーナリズムの一時的なものであるにせよ、勝利と言えるのだろうか?
 アンナ・ポリトコフスカヤ自身も2006年10月7日、自宅アパートのエレベーター内で、何者かに射殺された。
 この映画のヒロインのジャーナリストも弟を人質に取られているため、主人公の無事な脱出を見とどけてから当局に自首するつもりだと言うが、彼女を待っているのは、多分、死だろう。
 日本人のジャーナリストで権力の圧力に萎縮せず命を賭けているのは、フリー・ジャーナリストくらいのものだろうが、社畜と化した大手ジャーナリズムの記者たちは、こういう映画を見てどう思うだろうか?
 オレらにはできないな・・・と言うのが、ほとんどだろう。
 私は、共謀罪、何と呼ぼうと必要だと思うし、賛成だが、ところで、国家テロの共謀は、共謀罪で裁けるのだろうか?
 では。

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