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2017年7月23日 / misotukuri

映画「アイ・ロボット」-人間の心はスタンド・アローンに宿る度

 昨日映画「アイ・ロボット」(04年、米、アレックス・プロヤス監督、ウィル・スミス、ブリジット・モイナハン他)を見たところ。
 SFファンが、これをまだ見ていなかったとは言いづらく、どうですかと聞かれても言葉を濁していたが、とうとう見てしまった。
 なかなかよく出来てるじゃないか。
 途中でロボット嫌いなスプーナー刑事の左腕だっけ、超合金でできてるのがわかり、一気に実はこの刑事もランニング博士が創ったロボット(アンドロイド)、少なくともサイボーグか!と思ったが、そこまで飛躍はしなかった。
 新型ロボット、サニーは自殺した博士が創り上げた特別なロボットで心(感情)を持つようになっていたが、他の一般型のロボットは、姿形はそっくりでも、サニーと違って、Vikiというホストコンピュータによって日々自動更新される心のない存在だった・・・というところで、ふと小さな疑問が生じた。
 心というのは、スタンド・アローンでなければ人間的とは言えないのかな、ということだ。
 集合知性、集合意識といったものは人間の心とは明らかに違う非常に隔たったものなのかと思った。
 ロバート・チャールズ・ウィルソンの「時間封鎖」三部作の完結編「連環宇宙」に1万年後の未来、人類は究極の民主主義として、大脳皮質系民主主義と大脳辺縁系民主主義の両陣営に分かれ戦争をしている世界が描かれているが、これなどいずれもホスト・コンピュータとネットワークを介し脳がつながっている。
 大脳皮質系民主主義は、知性を共有し、全員が感情に左右されずに正しい判断ができるようなシステムで、大脳辺縁系民主主義は、そういう皮相的なものでなく、心の底からこれで良かったと納得できる選択を可能にするシステムだ。
 だが、どちらにも一長一短があり、1万年前の人間にとっては、(正確には、アーカイブから再構成された人間なのだが)あまりにも異様な人間のあり方だった。
 みんなでつながっていることはいいのだが、主体性を放棄する所まで行くのは行きすぎと思う。
 だから、まだしも大脳皮質系民主主義の方がマシかなと思う。
 人間は、自分がスタンド・アローンだから、人生が一回性のものであることの認識を持てる。
 そうか、クローン化などによる永遠の生命は、人間の心を失うことでもあるのだなと思った。
 この映画、今さらと思っていたが、見て良かったよ。
 また、アシモフのロボット三原則はよく出来ているのだが、それをロボット達が、解釈改憲的に別解釈するのには恐れ入った。
 <ロボット三原則>
 第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
 第二条 ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。
 第三条 ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。
 ただし、それに触発されて、ふと思い出したのだが、「ロボットは人間に危害を加えてはならない」とか言う場合の「人間」の定義が難しいのではないかと思うことだ。
 「人間」の定義ができないなら、そもそもロボット三原則は無意味だし、また定義ができればできたであなたがその「人間」の定義に当てはまるかどうかという問題がある。
 やっぱり、アシモフのロボット三原則はSF小説のネタにすぎないということだ。
 そういう考えは、逆に危険極まりない。
 では。

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