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2017年8月5日 / misotukuri

「大鴉の啼く冬」は10年に一度の大傑作

 肺炎で入院中、ネット絶ち11日で、特に私的にはどうと言うこともなく、今朝退院した。
 この間、だいぶ積ん読本の整理ができた。
 「大鴉の啼く冬」(06、アン・クリーヴス)は、読みかけだった本だが、まずこれを片付けた。
 しかし、これは10年に一度の大傑作だね。
 こういう作品を読むほどに、小説というのは女性のものだなと思う。
 21世紀に入ってからミステリは傑作が目白押しで、その中でも、「夜に生きる」(13、デニス・ルヘイン)、「ありふれた祈り」(14、ウィリアム・ケント・クルーガー)のAWAエドガー賞受賞作、そしてこの「大鴉の啼く冬」のCWA賞ゴールド・ダガー賞受賞作、これらは本当にどれも10年に一度の大傑作だ。
 この歳になって、ミステリの黄金期に巡り会えるとは、思いもしなかった。
 うれしい限りだ。
 この「大鴉の啼く冬」は、犯人当てという点では、私のフーダニット三原則を冷静に当てはめていけば、登場人物が一巡したところで、わかると思うが、一般の読者はそんな読み方はしないので、これで十分だろう。
 最後の方で、ドキッとする独白があるが、もちろん、これで犯人は確定する。
 あとは如何にして、エンディングに作者が持っていくかだが、これはすぐにでも映画にできるだろう。
 人物の描き分けも、視点の変化で複眼的に描写していく手法を採っており、これが物語の単調さを補っている。
 たとえば、これをハードボイルドのように探偵一人の視点で全て描いたらどうかと考えると、大して面白くないだろう。
 また全能の神のごとき視点で描いてもまたここまで深みのある表現はできなかっただろう。
 同じAという人物を描くのにBやCの視点で描くということは、逆に視点の主であるBやCの人物描写にもなっているというこの複層的な描写手法はリアリティを醸し出す上でなかなかのものだ。
 こういう描写法を読みながら意識させられたのは、P・K・ディック以来だ。
 ディックの手法はそれほど意識的に構築されたものではなく、ストーリー展開上行き当たりばったりのページ稼ぎのようなところがあり、人物描写という程のものではなかった。
 アン・クリーヴスの女性ならではの関心の向け方とか、こういうテクニックに、ああ、これは男性作家なんかは、とうてい敵わないなと思う。
 男性作家が書けば、こういっちゃあなんだが、ある意味ほとんど男性にはどうでもいいことばかりなので、トリッキーな短編にしかならないだろう。
 これを読者にページをめくり続けさせる筆力は、さすが英国女流作家と思う。
 風景描写というのは、大抵、それが心象風景だとしても、退屈極まりないもので、短ければ短いほどよいと思っているが、この小説はシェトランド諸島が舞台となっており、どんな風景描写かと思って気をつけて読んでいたが、一つ一つが私の理想に近いものだった。
 例えば、これがシェトランドでなく、徳島だったらと考えればよくわかる。
 現実の事件では、犯人が何者であるかに関わりなく、どこに居住しているかは、犯罪の痕跡で、ある程度地理的に絞られ、続いて、プロファイリングによって容疑者が絞られる、あるいはその逆ということがよくあると思うが、これは小説にする場合、全く面白くない。
 ミステリ小説では、事件が必ず手詰まりになるという設定しかあり得ず、その場合、被害者の殺される動機というか、理由をさぐるということでしか、小説は成り立たないということもよくわかった。
 色々な意味で、「大鴉の啼く冬」、これは素晴らしいミステリだ。
 まだ未読のお方には、是非、一読をオススメする。
 では。

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