「風立ちぬ、いざ生きめやも」って誤訳なの?-1
<2013.7.16追伸>
記事の本編の前に追伸を置くのも変ですが、こんなブログの記事など、仲間内しか見ないと思っていたのに、このところアクセスが急増していて、変だなと思っていたところ、今日の朝日新聞で宮崎駿のアニメ「風立ちぬ」が出来るということを知りました。
ああ、それでですか。
しかし、この記事はそれとは関係ないので、念のため。
あなたが、間違えてアクセスしてしまったのだったら、ごめんなさい、さようならです。
<2013.7.20追伸>
その日の統計を見ていると、以下の<記事の本編>を読んでくれている人は、アクセスの約1割の人が見てくれているようですね。
まあ、そんなもんでしょう。ちょっと安心です。
<記事の本編>
何故か無性に「風立ちぬ」(堀辰雄著)が読みたくなった。
本棚を探したが、わからないので、ネットを検索してみたら、こういうのがあった。
おかげで、何とか先ほどその衝動を満たすことができた。
ありがとう。
こういうときには、本当に便利だ。
ただし、横書きで読むのは何だか変な感じがしないでもなかったが。
この「風立ちぬ」のことを考えるたび、まず、思うことがある。
それは、「風立ちぬ いざ生きめやも」という詩句が、誤訳だということだ。
自慢じゃないけど、高校のとき古典はいつも赤点ギリギリだった。
フランス語も大学で第二外国語で取ったことはとったが、もう、完全に忘れた。
だから、確信はないが、
Le vent se le’ve, il faut tenter de vivre. ポール・ヴァレリー
の訳が、「風立ちぬ」はいいとしても、後半の「いざ生きめやも」というのはおかしい。
と、昔から言われていることだ。
フランス語はともかく、旺文社全訳古語辞典で見ると、「いざ」は「さあ、(~しよう)」
「生きめやも」というのは、「生き・め・や・も」に分解できると思う。
「め」というのは、「だろう」という意味。
「や・も」というのは、「か?」
であって、「生きめやも」というのは、せいぜい、「生きられるだろうか?(いや、生きられはしない)」という意味なのか?
「紫草(むらさき)のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひ・め・や・も」(天武天皇)
これは、万葉集にでてくるあまりにも有名な「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」(額田王)に対する返歌だが、「め・や・も」が出てくる。
「私を捨てて人妻になってしまったあなたが憎ければこんなに恋しいと思うでしょうか?(いや、本当に憎いなら、恋しいとは思わないでしょう)」という意味。
「風立ちぬ いざ生きめやも」というのも、「風が吹きましたよ。(もしそうなら、)さあ、(僕と一緒に)生きようか?(風など吹いていないのなら、さあ、僕と一緒に生きようか?なんて、そんなことは言いませんよ)という意味なのか?
「風立ちぬ いざ生きめやも」は、現代風に訳せば、色々細かいニュアンスはあるが、「風立ちぬ」という事自体に取り立てて意味はなく、何かの景気付け程度だろうと思うので、「オッ、風が吹いちゃったじゃないの!それじゃ、まあ、生きてやりますか?」とでもなるのかな?
となると、それ程、誤訳でもないのではないか?
純文学にチョー詳しい友人がいるので、聞いてみよう。
この小説は、何度となく読んでいるが、不治の病で余命幾ばくもないということは、これからも多分ずっとあり続けることだと思うし、そういう身に自らを置いてみれば、何でもない今現在のこの一瞬一瞬を深く味わって生きることの大事さという事がよくわかる。
<-2へ続く。>
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