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2020年12月26日 / misotukuri

「時間SF傑作選を読む-11」

 「しばし天の祝福より遠去かり・・・」(ソムトウ・スチャリトクル著)。
 突然現われた宇宙人との一方的取引で800万年問も同じ一日を繰り返すことになった地球人たち。
 宇宙人たちは既に不死を達成しており、成長するのが非常に遅い。
 彼らは自分たちの子供(中学生に相当する)の学習に未開惑星の一日を見学させたい、ついては君たちにも迷惑をかけることになるので毎日2時間の休憩と不死の恩恵を与えよう、という取引を人類に持ちかけてきた。
 一方的な取引で、否応ないのだが、一日を少しの間繰り返すことになるという。
 繰り返す時、人類は全員それを自覚できていることがミソ。
 しかし、たまたま切り取られた一日なので、中には、まもなく衝突事故に巻き込まれて死ぬ日だったリすることもあるわけだ。
 しかも、彼らにとって少しの間だというのは、800万年だという。
 人間が800万年間も毎日毎日死ぬ曰を繰り返させられれば、たとえ2時間フリーに過ごせる時間があっても、不死なんていらないということになる。
 普通、SFには現実逃避的というか願望充足的なところがあって子供っぽい夢物語だといわれるが、これは相当ねじくれた悪夢だ。
 しかも、時間が繰り返されていると誰もが知っているにも関わらず、どうにもできず、嫌になるところが面白い。
 半身不随の権力者が不死を望み吸血鬼に懇願して、自分も吸血鬼にしてもらうが、あて外れにも半身不随は治らなかったという皮肉なホラーがあった。
 これと似たような悪夢が永遠に繰り返えされることになるのは、恐怖よりも腹が立つ。
 この小説は、時間ループものなどでロマンチックな夢物語を紡ぎ出す作家やそれに耽溺する読者の幼稚性を揶揄した作品だ。
 罵倒したと言おうか。
 こういうのを読むと、本当に全ての時間物SFをナンセンスと全否定したくなる誘惑にも駆られる。
 ループ物にしても、時間は全部の恒星が死に絶える遥かな未来で源初にループしているとしたらどうだろう。
 ループ物は過去も現在も未来も確定している事が前提だが、一つのループから抜け出しても、大きなループの中にいるわけで、何かを変えたというわけではないのでは。
 そもそも、我々には未来が確定しているのかいないのか、観測できないのではないか?
 可能性の未来などという言葉も、未来が確定しているなら、それはあり得ないし、未来が確定していないとしても、それは、確定しているのが見えないのと区別がつくのか?
 更に、過去も未来も存在せず、ただ現在があるだけだという説もあるが、これはタイムトラベルを否定するので、もしそうなら、時間SFのほとんどは壊滅状態だ。
 先に読んだ「時の鳥」と同じく、主観的過去にしか行けなくなる。
 映画「ターミネーター」などもあり得ないし、親殺しのタイムパラドクスも起きえない。
 まあ、このSFには、そういう空想科学小説を小馬鹿にしたところがあるね。
 あるいは、自爆SFテロか。

2020年12月22日 / misotukuri

「あなたの人生の物語」は決定論的宇宙観か

 読まず嫌いだったテッド.チャンの短編集の中の標題作『あなたの人生の物語」読了した。

 映画「メッセ一ジ」の原作だが、話は映画とは少し違うようだ。

 もっとも、これをそのまま映画化するのは、難しかっただろうなと思う。

 小説では、主人公が宇宙人のニ種類の言語を習得するうちに、宇宙人の世界認識の方法を次第に身につけて行く過程が延々と描かれており、その合間にランダムにこれから起きる主人公と娘の人生の物語があたかも思い出を語るように語られる。

 そして、宇宙人は訪れた時のようにある日突然一斉に去って行く。

 ドラマチックなところは全くない。

 言語学と物理学の知的興奮を楽しむだけの話だ。

 主人公が宇宙人の言語を習得するにつれ、宇宙人的にこの世界を認識できるようになって行く過程が人間的に過去から現在まで順(シーケンシャル)に語られるが、その合間に娘との関わりのエピソード(娘の人生の物語)が、ランダムに現在を超えて未来にまでフラッシュ描写されて行く。

 このフラッシュ描写される部分は、宇宙人の言語を習得するうちに主人公も宇宙人の世界認識のように過去・現在・未来が同時に認識できるようになっていることを表現している。

 過去・現在・未来が同時に認識できるということは、因果関係的にしか認識できない我々と違い、原因が発生するよりも前にその結果を知っているということが常態だということ。

 そのよう認識能力を持つ生命体にとって、何かの行為をするということは、前もって分かっていることを実現させて行くということ。

 だが、このようなことが、あり得るのか?

 それは、この世が過去から未来に至るまで既に決定していて、それをこの宇宙人たちは見る能力を持っているということだから。

 その能力はともかく、それはこの世界はあらかじめ決定されているのだという決定論的宇宙であるという見方なのだが、我々の認識能力ではそれを確認できないにしても、物理学において立証することができるようなのだ。

 その一つが光の屈折について観測される「フェルマーの最少時間の原理」だと言う。

 すなわち、光線は常に可能な最速のルートを辿る現象

 これは光線を発する前に到達先に行くのにどのルートが最速かあらかじめ分かっていなければ不可能。

 しかし、そんなことがあり得ようか?と思うが、観測結果は常にそうなっているのだ。

 このことから、この宇宙は決定論的に定まっていることが導かれるだろう。

 因果関係というのは認識の方法にすぎないということも分かる。

 因果関係などというのは、そのように現象を見ているだけで、実際の所そんなものはないのだ。

 IQテストでもそうだが、現象の中に如何に速く因果関係を見いだすかで測られる認識方式に我々は特化している

 我々の認識する日常の世界でそのようなことがアナロジカルに想像できることと言えば、この宇宙がビデオ作品のようなものであり、我々は俳優でその登場人物をシナリオどおり演じているに過ぎないとする場合だろう。

 だが、その場合、自由意思はどうなるのか?

 我々は未来を予測はある程度出来ても、確定した物として認識はできない。

 そのような我々には、未来に目をつぶれば、自由意思があるかのようにふるまえるだろう。

 我々の物事のすべてに因果関係を見い出そうとする、そして、時間が過去から未来へと流れて行く連続的な認識の仕方では、宇宙が過去から永遠の未来まで決定されているとしても、感覚的には、未来は未確定であり、我々には自由意思があるとしか思えないのだ。

 だが、そう言われてみれば、観測結果からしても、我々の宇宙は決定論的宇宙のように見えてくる。

 しかし、その決定論的宇宙には、「フェッセンデンの宇宙」(エドモンド・ハミルトン)ではないが、同待に外側の造物主的存在を感じさせる。

 しかし、この宇宙が我々には想像を絶する巨大なビデオ、あるいは、VRシミュレーションの結果出来上った作品に過ぎなくても、永劫回帰のごとく何千億回も繰り返し上映されている内に、金属疲労による崩壊のように“偶然”に、この時空を超えて飛び出して来る知的生命体が発生するということも考えられるのではないか?

 グレッグ・イーガンの「順列都市」のイメージだな。

 ともあれ、この宇宙人のくそ面白くない永劫回帰の決定論的宇宙観に矛盾はなさそうだ。

2020年12月3日 / misotukuri

「時間SF傑作選を読む一9,10」

 前回から少し間が空いたが、「いまひとたびの」(H・ビーム・パイパー著)。
 正直、読み始めてからなかなか進まなかった。
 この手の話は、もう、たくさんだと思っていたからだ。
しかし、義務感に駆られて、読み進んでいるうちに、途中から議論小説になっていることに気がついた。
 それまで、スムーズな文章の流れといい、ノスタルジックなファンタジーみたいだったのに、急に同人誌レベルの生硬な「時間論」の話になっている。
これは小説としては、明らかに失敗と思うが、逆に手慣れた文章を読まされるより、SFファンとしては興味深い。
これもまた、「時間の流れ」などは無い、あるのは、「意識の流れ」なのだという立場に立っている。
だが、そのように理解した場合、これから起きるだろう記憶の中の過去である未来を変えることができるものだろうか?という疑問がある。
 これに対しては、時間は番地のようなもので未来も過去も現在もすべて蓋然性の中に存在しているから、当然その範囲で変えられることになるというのだな。
 意識を変えたい方向に変えれば良いというわけだ。
 だが、どうやつて?
 それはわからない。
 偶然か、能力的中なものか?
 いずれにしても、「唯心論」で、うさん臭い話には違いないが.それても説明できるという点で「天動説」の ように面白い。

 次のSFは「12:01PM」(リチャード・A・ルポフ著)。
 いわゆるタイムルーフ°もので、この作品は特定の一時間が永久に繰り返されるというもの。
 ただし、それが分かるのは、自分だけらしいということ。
 よくある話ではあるが、確かにこれは傑作だと思った。
 似た設定の話は、先行作品がいくつもあるが、このルーフ°のスパンを1時間という長くはない時間に設定したことで「問題解決のための時間的問題」があるということに気付かされる。
 ループが何故起きたのか?
 ループを解消するにはどうすればいいのか?
 なぜ自分の記憶だけが引継がれるのか?
 こういうことを解決するには時間が絶対的に足りない。
 何をするにしても資金が必要と、資金を集めるにも時間が足りない。
 例えば他の似た設定のSFのように、競馬の勝ち馬を憶えていて、馬券で大儲けして、お金持ちになるなんてことも時間が短かすぎて無理。
 株式で儲けることができても現金化できるだけの時間がない。
 ループの原因を説明できる人間を見つけることができてもその人間自身が今まさにループが起きていることを認識できないとどうしようもない。
 その内、身近なところでいくら変えても1時間すれば元に戻るなら、極端なことをしてもかまわないと、自棄になっておもいきりお馬鹿なことをするかもしれない。
 昔ある先輩に日航ジャンボ機の墜落事件の時に「お前なら、どうする?乗っていたら」と聞かれたことがあり、答えをしぶっていたら、「オレなら、別嬪のスチュワーデスにおもいきり抱きついてなあ」とお下劣なことを言いはじめた。
 品性に疑われる話ではあったが、ま、そういうことを羞恥心なくあげすけに言えること自体に感心した。
 確かに、1時間しか自由にならなければ、どうしてもできることは限られてくる。
 とすれば、精一杯、この状況を楽しもうと思っても、不思議ではない。
 考えようによっちゃあ、1時間のパラダイスだ。
 それもありかな、と思わないでもない。
 しかし、そういう楽しみは何回も続くものではない。
 旨い料理も同じものが2回も続くと初めての時の感動は確実になくなる。
 やはり、ルーフ°が何故起きたのか?とか、このルーフからどうやったら脱けられるか?とか、脱けた先はどうなっているのか?等々の疑問の解決を求めたくなる。
 いや、そもそもそんな疑問は持ちたくないのかもしれない。
 仮に.ループのスパンが50億年だったら、我々は当然ながらこの宇宙がループになっていることなど当面の問題にはならないだろう。
 そういう仮説を検証実験できるほどまだ科学的に進歩していないからだ。
 地縛霊のように恐怖のループに閉じ込められているにしてもそれが救いになることでなければ自分から脱け出ようとは思わないだろう。
 この世がループになっているのではないかなどと考えようともしないのは、皆それを知っているからではないのか?
 ふと、そんな想念に捕らわれるようになるSFだ。
 ビル・マーレイの『恋はデジャ・ヴ」は確かに似た設定だが、幸せ感を換起する点でより積極的。
 人生その方が楽しい。

2020年11月25日 / misotukuri

「時間SF傑作選を読む-8」

 今日は、一読後、悪夢のように記憶にこびりついている名作。
8 旅人の憩い(デイヴィッド・I・マッスン著)
 私が最初に読んだのは、1977年1月号のSFマガジンでだが、邦訳自体はもっと古い。
 いわゆるニューウェーブSFだな。
 時間の長さが場所によって違う世界。
 その世界の<境界>付近にある戦闘区域では何ともしれない敵と激しい戦闘が続いていた。
 そして、そこでの10分は南の居住地域での20年に相当するのだ。
 主人公は数分間の戦闘任務で解任(いわゆる予備役編入のことと思う)され、故郷に帰り、結婚し、三人の子持ちになり、社会的にもそこそこ成功し、平凡ながら幸せな日々を送っていたが、ある日、彼が出社すると、玄関先に兵士が令状を持って待ち構えていた。
 何か、翼竜みたいなのが出てくるから、テラフォーミング最中の奇妙な植民惑星での話みたいに思える。
 高度に発達した異様な都市風景と風俗。
 飛ぶように進むスピード感溢れる激烈な戦闘描写。
 平凡な人生が8mm映画の映し出す映像のようにカタカタと動いていく。
 迎えに来た兵士とともに原隊に復帰すると、そこでは前回彼が解任されてから数分も経っていなかった。
 そして、命令一下、彼は再び激烈な戦闘のただ中に飛び込んでいく。
 わき起こる大きな「疑念」を胸に抱えながら。
 戦闘地域で数分戦っただけで、居住地域では10年も20年以上も経っていることになるなんて、まるで、「邯鄲の夢」のようなお話だ。
 これはアイデアよりも、無常感が漂う作品。ベトナム戦争ものの映画で、「ジェイコブス・ラダー」(1990年、エイドリアン・ライン監督、ティム・ロビンス)を思い浮かべた。
 また一方、私は、その「疑念」が強烈で面白かった。
 しかし、数分という短い時間内では、多分、その「疑念」の真偽をを確かめるすべはなかろうと思う。だが、ブラックホールなら…
 これが小説として優れているかはともかく、われわれのこの世も同じじゃないかと思ってしまう。
 死ぬと同時に悪夢のような現実に目覚めるのかも。
 これは今読んでも全然古くないね。
 ・・・とまあ、再読直後の感想としてはその程度だったのだが、どうにも気になって仕方がない。
 寝ていて夢の中でもぼんやり考えているのだ。
 先日も明け方の夢の中で考えたんだが、この小説の世界は、<境界>の先にあるブラックホールに自由落下しているのだと思う。
 重力井戸を自由落下する惑星上では、身体に及ぼす重力の影響はどこでも大して変わらず、時間の長さだけがブラックホールに近づくほどに縮んでいく。
 だが、<境界>付近と居住地を移動する人間の感覚では時間が伸び縮みしていることがわからない。
 従って、よりブラックホールに近いその<境界>付近では1分でも、居住地では1年も2年も経っているみたいなことがある。
 そして、その惑星から何光年も隔たった宇宙空間から観測すると、加速度的スピードで今にもブラックホールに飲み込まれようとしている惑星が見られるはず。
 そうか、このSFは、相対性理論のお話か。
 

2020年11月23日 / misotukuri

「時間SF傑作選を読む-7」

 今日は、YouTubeで料理(?)の動画を10本くらい見た。
 まるで別物即席サッポロ味噌ラーメンの作り方が3本、絶品カレーライスの作り方が3本、後は飲んだくれのロシア美女Lanaの晩酌もの数本、クリーミーな納豆ご飯などだ。
 かみさんにその話をしたら、「つくってみてよ」だったが、面倒くさくて、そんなもの、できるもんか!
 というわけで、今日のSFは、大家の作品。
7 「昨日は月曜日だった」(シオドア・スタージョン著)
 実を言うと、シオドア・スタージョンの作品は、色々読んでもどれ一つとして、私には合わない感じなのだ。
 奇想であることは確かだが、それがどーした?って感じなのだな。
 主人公が朝目覚めたら、その日は水曜だったが、昨日は確か月曜だった。
 なら、火曜日はどこへ行った?
 とまあ、誰しも、こういう経験は、若い頃に一度くらいはあるだろう?
 なに、ない、だと?
 まあ何と品行方正大学なお坊ちゃま、お嬢ちゃまなこと。
 まあまあ、それもいいだろう。
 ついでだが、Lanaのお酒で失敗した話は傑作だ。
 私も「人が死んでる」なんて言われたこともあったが、・・・その話はいずれまたそのうちに。
 こういうとき、普通は記憶が飛んだ原因を無意識に説明しようとする。
 24時間以上の爆睡、昏睡状態で担ぎ込まれた、記憶違い・・・
 その他にも、アル中、ヤク中、統合失調症(精神分裂病)、認知症(レビー小体型)の発症等々。
 シオドア・スタージョンの場合、失礼ながら、これら全てがあり得る。
 小人が出てきた段階で、これは、レビー小体型の認知症かと思った。
 だが、こういう現象が、自分の身に起きたとき、怯えず、逆手にとって面白がり、想像を膨らまし、一編のSF小説に仕立てようとするのは、さすが作家らしい。
 ダンテみたいに地獄巡りをしても、面白おかしいお話をルポしてくれそうだ。
 しかしまあ、人間の意識は日常感覚的にはアナログだが、実際はデジタルなものであるという。

 時間を意識することも、デジタルでキレギレとしたら、時間というのは存在の座標みたいなもので、時間の流れなんてものはないとも言えるわけだ。
 前後に永遠につながっているシークエンスを何かの弾みで一日分飛ばしてしまったら、こういうこともあり得る。
 「10月10日では遅すぎる」(フレッド・ホイル)の時間理論と同じだ。
 ただし、水曜日のシークエンスの人物の記憶では、昨日が実際にあろうとなかろうと関係なく、あくまで火曜日になるはず。
 だから、私の考えでは、この話は酔っ払いの与太話に過ぎないと思う。